2009/11/15
空手は強くなるための武道である。
もちろん強くなるとは肉体的も精神的にも強くなるという意味である。
どちらの方が難しいだろうか。
昔は精神的に強くなるほうが難しいと思っていた。
肉体的には適切なトレーニングを積めば誰でも一定の強さは得られると。
しかし精神的な強さは、それを測るバロメータが無い。
果たして強くなったのかどうかは本人の主観によるしかないと思っていた。
しかし、最近はちょっと違うかもしれないと思うようになってきた。
精神的な強さは主観ではなく、案外簡単に客観的に知る(測る)ことができるのではないかと思うようなってきたのだ。
精神的な強さは、海で漂流した時何日もゴムボートの上で生存のために努力する強さといったような極限状態での心の耐久性のように語られることが多い。
たしかにこうした極限状況での耐久力は精神的な強さの一つの象徴ではあるだろう。
しかし、本当に社会生活の中での必要な精神的な強さとはこういう極端な状況ではなく日常の中での強さである。
例えば、「打たれ強い人」という形容がある。
ボクシングの選手の話ではなく、一般社会生活の上で少々の困難や窮地をものともしない人のことである。
つまらない噂話や、他人から悪い評価に対して抵抗力の強い人たちだ。
でも、これに関しては弱い人たちのほうが圧倒的に多い。
例えば、掲示板などで攻撃を受けて精神的に強いダメージを受ける人々がいる。
最悪のケースだと韓国で有名な芸能人が自殺にまで追い込まれた事件もあった。
不景気でリストラされる人たちも、表向きは法律で守られていることになっているが、実際は、法に触れないギリギリの嫌がらせなど精神的な攻撃で自主退職の形を取らされる。
暴力団だって昔の任侠映画のような切ったはったのシーンはめったに見せることはない。
法的には「脅し」にならない範囲で静かな嫌がらせが横行している。
こうしたジクジクした陰湿な嫌がらせに対抗するには、肉体的な強さというより精神的な強さが必要となる。
こうした強さを肉体的な強さのように鍛えることができるだろうか、といのも今回のテーマの一つだ。
結論を先に言うと、「できる」だ。
精神的な力を鍛える一番の方法はなんだろうか。
まず、空手では肉体的なトレーニングをすることで精神的にも鍛えられる部分はある。
例えば、6人組み手を達成する、あるいは10人組み手を達成するという大きな壁を乗り越え事で人間は確実に精神的に鍛えられる。
具体的にどういう形で精神力として発揮されるかと言うと、例えば実現しそうにない困難な仕事にぶち当たったとき、「オレはあの時不可能に思えた10人組み手
を達成したではないか」という自分の過去の揺るぎない実績としてのバックボーンとしての力である。
これは、本当に強大なパワーの源泉となる。
しかし、今回のテーマはこれとはちょっと方向性の違う話だ。
例えば、会社や学校でヒソヒソ話でいじめられるとか、掲示板やいたずら電話で嫌がらせを受けるといった状況での精神力だ。
このような、一つだけ取れば些細な事が、大勢の人間や長い期間にわたって陰湿に積み重ねられるといった状況は10人組み手などとはまた違った種類のストレスだ。
こうした負荷に対する抵抗力を鍛える方法が今回の主テーマである。
今まで、多くの人たちからこの手の相談を受けた。
身近な例で言えば子供のいじめ問題。
近隣のトラブル。
リストラにからんだもの。
ちょっとした軽い相談というか話を聞いた程度のものまで入れるとそれこそ無数といってよいくらいだ。
そういえば、暴力団と一戦構えるとか、喧嘩を売られたといった直接的な暴力に対する相談は本当に数少ないことに気づく。
大多数の社会人は、ちょっとした精神的小暴力に悩む事のほうが圧倒的に多いということだ。
としたらこうした状況に対する抵抗力を増すというのは実生活においては一番重要な事なのかもしれない。
では、精神を鍛えるための効果的なトレーニングとはどんなものだろうか。
まず、精神的に強い人とはどんな人だろう。
あいつには勝てないと思わされる人物像は二つである。
一つは「鈍い奴」もう一つは「反撃力のある奴」である。
鈍い奴というのは要するに「馬鹿」の事である。
「馬鹿」という表現は語弊があるかもしれない。
噛み砕いて言うと、文句を言っても言う意味のない相手である。
もう一つのタイプは、攻撃すると何倍も実害が返ってきそうなやつである。
実害が返ってくる奴ではない。「返ってきそう」というところがミソである。
何となくメンドウが起きそうな感じの奴とは誰も関わりたくないだろう。
この二つのタイプは昔から強いとされているものの典型である。
この二つが精神的強者の典型である。
この二つを目指せば良いということになる。
と言っても「馬鹿」を目指すというのも何か変である。
「馬鹿」はそれを特殊技能だと考えるとどらかと言えば天賦のものである。
努力して得られるものではないのではないか。
たしかにそうかも知れない。
でも、我々は本当の「馬鹿」になる必要はないのである。
相手の攻撃に対して効き目がないという感触を相手に感じさせれば目的は達成される。
何だ、「しらんぷり」していれば良いのか。
しかし話はそこまで簡単ではない。
相手に対して効き目がないという感触を与えるには実際に自分自身が効き目がないという感覚にならなければならない。
要するに自分自身が鈍感であれば相手はそのままそれを感ずるのである。
小さい子供が虫の嫌いな子にわざと虫を近くで見せたり、どうかすると投げつけたりしていたずらする。
虫嫌いの敏感な子は過剰に反応する。
それが面白いのでいたずらっ子はまたそれをやる。
そしてこういう事はだんだんエスカレートしていくものだ。
いじめの基本構造は大体この程度のものなのだ。
これをやめさせるには、虫嫌いの子が虫に鈍感になるのが一番だ。
しかし、本当は虫嫌いなのに、そうでない振りをするのは難しい。
というか、生半可の芝居をしてもいじめっ子はすぐそれを見破ってしまう。
一番手っ取り早いのは自分自身が虫に対して本当に鈍感になることだ。
「鈍感に見せる」努力は労多くして効少ない。
しかし、世の中の暴力、いやがらせ対策はほとんどこの「鈍感に見せる」努力を奨励している。
本当は敏感なのに鈍感に見せるというのは大変なエネルギーを要する。
こんな努力は効率が悪い。人生の貴重な時間はこんな無意味なトレーニングに割くべきではない。
では本当に鈍感になる努力をするべきなのか。
これも違う。
鈍感さは後天的に得られるものではない。
本当に鈍感な人は生まれつき天然に鈍感なのだ。
いわば鈍感の天才だ。
この境地には常人が並の努力で達するわけがない。
ここにもう一つのキーワードが登場する。
それは「慣れ」だ。
「慣れ」る事。この簡単な誰もが知っている単語の意味は深い。
恐らく人間の持っている潜在能力で、最も有用で強力で利用価値の高い能力、その代表的なものの一つに「慣れ」がある。
虫嫌いを根本的に治せなくても、虫に慣れる事ならできる。
嫌なものは嫌なものなのだが、いじめっ子が期待する程の驚きを示さなくなったら、これはいじめっ子の完全敗北となる。
大げさに驚くことが面白くて虫でいじめていたのに、「フーン」といった顔をされたのでは意味がなくなるからだ。
自分にとって過敏になりがちな事柄や者は、ちいさな暴力の対照にされやい。
こうした事柄に対しては「慣れ」という予防注射をしておくことが最も効果がある。
もう一つの強い人物像は「反撃力のある奴」である。
大体小さな子供がいじめられるきっかけは些細な嫌がらせから始まる。
ちょっとしたからかいやちょっかいである。
いじめられっ子に共通した特徴は「反撃しない」ことである。
反撃しない事は相手にとって「優しい」ふるまいではない。
人間は無視されるのをとても嫌う動物だ。
要するに、ちょっとしたいたずらに反撃しないというのはいたずらっ子にとっては、精神的な屈辱を覚えるのだ。
たから、反応するまでいたずらがエスカレートしていくという構造になる。
強い子であれば、その段階の早いどこかで反撃する。
適当な反撃がいじめをエスカレートさせない緩衝材の役目を担うのだ。
一方反撃されたいたずらっ子が黙ってしまうと、今度は主客が交代して逆いじめが始まるというのも子供の世界ではめずらしくない。
過度の反撃は主客転倒したり喧嘩になってしまうのでこのサジ加減が難しい。
鍵をにぎるのはこのサジ加減つまり反撃の定量的な把握ということになる。
どうやってこのサジ加減を知ることができるか。
物理の力学の分野で反発係数という概念がある。
二つの同じ重さの物体がぶつかりあったとき、反対方向に同じ速さで離れていくときの反発係数を1とする。
硬い物同士がぶつかったときがこれに近い。
一方粘土のような柔らかい物同士がぶつかった場合は殆ど二つがくっついて静止するようなケースも考えられる。
この場合の反発係数を0とする。
二つの物体が衝突した場合反発係数は0から1の間のどこかにあるということだ。
この反発係数を反撃の程度として捉えると、イタズラがエスカレートするケースは反発係数が0に近い時、つまり無抵抗の状態かあるいは反発係数が1に近い時、つまり売り言葉に買い言葉状態の時と考えることができる。
適当な反撃とは感覚的に反発係数0.5あたりを考えると良い。
相手の攻撃よりは幾分柔らかめだが、最低限の強さ(毅然とした態度)を持った反撃を行う。
相手がエスカートしても、決してそのエスカレートには付き合わない。
これが一番ポイントになるところだ。
しかし、無反応にはならない事。
これでやがては攻撃と反撃の振幅は収まってくる。
車のサスペンションと同じた。
バネは反発係数1であり、ショックアブソーバーは反発係数が0である。
この二つを組み合わせて車のサスペンションはできている。
優れたサスペンションは突然の外力を上手に減衰させる。
我々も心のサスペンションを持つべきなのだ。
最初に述べた「馬鹿になる」というのがショックアブソーバであり、「反撃する」というのがバネに当たる。
ジョックアブソーバだけでもバネだけでも、サスペンションにはなりえない。
二つが揃って初めて性能の良いサスペンションができる。
精神的な強さとはこうした心のサスペンションの性能を良くすることなのだ。
ストロークの長い、そして減衰力の優れた心のサスペンションの持ち主を「懐が深い人」といった表現をすることがあるが、言い得て妙である。
本当に強い人はまさに「懐が深い人」なのだ。