97年12月4日の朝日新聞夕刊を読んでいると、脚本家の野島伸司氏の言葉として「人は強くなる必要はない」という見出しが目に飛び込んできました。
これは知的障害者をテーマにした「聖者の行進」という1月からTBSテレビではじまるドラマの紹介ということでインタ
ビューに氏が答えるという形になっています。
「人間は基本的に強くなる必要はない」ということ。
この言葉は氏が書くシリアスなドラマにはいつも込めているテーマだそうです。
「強くなれ」と日ごろ何かにつけてこう言いつづけている私にとって、この「強くなる必要はない」という言葉はいやでも、目についてしまいます。
まず、氏の言葉をそのまま記載します。
「それは、人間は基本的に強くなる必要はない、ということ。弱い心を、薄く何枚も情緒でくるむような生き方のほうがいいんじゃないの、と。自分の弱さがいやで人は強くなろうとするけれど、それは、どこか鈍感になるということ。他人の痛みにも鈍くなる。だから、弱くてもいいんだ、と」
氏の言葉を私が意訳すると次ぎのようになります。
氏の主張は私と真反対のように見えます。
でも、本当は殆ど変わらないのです。
というより、99%同じことを言っていると思います。
まず、人は本来弱い、そして、その弱さはいやである、だから強くなりたい。
ここまでは全く同じ意見です。
だからどうするかといった点から少し違ってきます。
「弱いから強くなりたい」という心理と「弱くても良いじゃないか」という心理は実は紙一重です。
そのことは、自分の子供の頃のいろんな体験を思い出せば、あらためて理屈をこねなくても、おわかりいただけると思います。
氏に対しては少し厳しい言葉になるかもしれませんが、氏の考えあるいはそうした傾向の思想は実は、今の社会のあらゆるところに根深くはびこっていて、いろんな弊害を生んでいると私は考えています。
「鈍感になると他人の痛みにも鈍くなる」ということはまちがいありません。
でも、「強くなるということは鈍感になるということ」でしょうか。
そして「だから、弱くてよい」という結論になるのでしょうか。
ここには、次ぎの大きな暗黙の了解があります。
強いやつ=鈍感=他人の痛みが分からない
弱い人間=敏感=他人の痛みが分かる
この図式は正しいのでしょうか。
強い人間は鈍感で弱い人間は敏感なのでしょうか。
「弱さ」という言葉には、権力や経済力、暴力に虐げられた善良な市民といった響きが意図するしないにかかわらず感じられます。
変な話ですが、現代の日本は「弱さ」という言葉はあらゆる攻撃からの免罪符になる力を持っています。
私も、人間というものは基本的には弱い存在だということに異論はありません。
しかし、この弱さを克服したいという気持ちが皆の共通の目標であることで社会は成り立つと考えています。
人の目のないところでこっそり物を盗んだり、ずるいことをするというのは人間の弱さです。
いろんな犯罪はこの弱さから発生しています。社会規範や倫理道徳を守れないのも弱さです。
弱くて良いという選択をしたら、殆どの人間の自堕落な行動は正当化されてしまいます。
弱さをうりものにしていれば、悪人の傍若無人なふるまいを見て見ぬふりをしても正当化されます。
「弱い」という事実を認めることと「弱くて良い」と主張することは全然違います。
弱いのはしかたのないことですが、弱くて良いといってしまうことで、全ての責任から逃げているのではありませんか。
野島氏の主張には、現代の日本人それも、まじめで良識的な人ほど陥りやすい、深くて静かで大きな間違いを含んでいるように感じてしようがありません。