私はオペラというものがいまだによく理解できません。
いや、ぜんぜん理解できないのではないのです。
子供のころピアノの稽古をさせられていたこともあり、平均的日本人よりいくらかは、鑑賞の機会も多かったと思いますし、それなりの感動らしき気分をあじわったこともあります。
しかし、心の底から全て理解したと感じて身がぶるぶる震えるといった感覚をもったことがありません。
理科系の人なら分かると思いますが、ニュートンの物理学の公式を知ったときの感動があります。
例えばジェットコースターのある地点での速度は、摩擦などのロス分を無視すれば、出発点と現地点の落差のみで簡単に計算できるという驚くべき事実があります。
その経路や距離、また、そこに至るまでの経過時間、あるいはその途中の傾斜変化などもまったく考慮しないで計算できるという感動です。
もちろん逐次的に計算していく方法もありますが、位置のエネルギーと運動エネルギーの同一性の概念を理解してしまえば、そんな面倒な計算はいっさい不用だということがわかっている人にはわかります。
このわかるという感覚は、生理的というか体感的というか、一切の疑問を吹き飛ばし、原理の髄のずいまで理解できたという感覚です。
理解できた人同士ではもう議論の余地などないのです。
理解できた人は、それぞれの個人的な差はありますが、いつの時点かで涙がこほれるほどの感動をしているはずです。
私の場合は、高校生のとき物理の教科書を読んでいて、子供のころから、ほんやりと感じていた原理を数式で示された瞬間です。
位置のエネルギーの概念は、スキーやスケボー、木登りやプロレスゴッコなどで、子供のころから感覚的には皆持っているものです。
ただそれを数学を使った定理や公式という形で表現できないだけです。
分かっていることを、きちんと整理した形で数式として目の前に示される。
しかも、誰でもわかる単純な式です。
これが大事なことです。
力とかスピードとか加速、質量といったいろいろ関係がありそうな要素を全てエネルギーという単一概念で包括してしまえることの感動です。
こうした概念を一旦理解してしまうとことその事柄に関しては間違った議論はなくなります。
概念を本質的に理解している人は、それに関する議論は首尾一貫しています。
いつどこで誰と議論しても結論や背景は同じです。
一見異なることを言っているようでも注意して聞くと表現の違いだけです。
理解しているとはこういうことを言うのです。
そして、こういう形で最初に理解したときは、全身に電気が走ったような感動があります。
私は、オペラに関してはまだこの感動がないのです。
あるとき、あるプロの音楽家から、
「オペラがわかってなければクラシック(西洋音楽)を本当に理解することはできない」
という話を聞きました。
実は、そのときはっとしたのです。
私はクラシック音楽が好きなのですが、どうも分かったという気分がしない。
これは、物理におけるニュートンの公式を知って身が震えたということに相当する経験をまだしていないということなのではないかと思ったのです。
公式を知って身が震えるには、断片的なそれに関する多くの実体験の蓄積が必要です。
小さな感動やちょっとした疑問、その時々の自分のレベルに応じた理解(それは多分間違いなのですが)。
こういった長年の蓄積の背景が、あるとき、一本の線につながり、全て分かったという感覚になり身震いするのです。
これが感動の正体なのです。
私は、ことオペラに関してはその感動はまだです。
でも、いつかその感動を得られるのではないかという兆候は感じています。
こういった感動をへて、その原理や本質を知るといったことが大切なのです。
このような感動を得るには、その前の蓄積が必要です。
この蓄積を得る仮定が稽古や訓練、学習あるいは広い意味での経験ということになるのです。
一定量の蓄積のあと「わかった」と心底思う感動を経て、理解したという状態になります。
そしてこの理解もいろいろなレベルがあります。
例えば物理学で言えば、このニュートンの原理、これ以上この自然世界を合理的に説明できる原理はないと殆どの天才が思っていた原理。
驚くべきことにそれを根底から覆すアインシュタインの相対性原理という概念がその上に出現するのです。
この原理も中学生でも理解できるほど簡単な数式であらわされます。
しかし、この式を心臓が破れるほどの驚きや感動をもって見ることができる人は、だいぶ少なくなってきます。
受験勉強的な丸暗記は簡単です。
「静止状態では、エネルギーは光速の二乗に質量を乗じたものと等価である・・・・・・」
というように一行で表現はおしまいですから。
でも、これは、ニュートンの古典的物理学を心底理解理解している人にとっては、ものすごい驚きというか感動というか、全身に震えがくるしろものです。
こうした人達にとっては、この相対性原理を肯定するにしても否定するにしても、ニュートンを理解している人達だけに許される、激烈にしても楽しいエキサイティングな議論の場が形勢されうるのです。
ニュートンを理解できない人にはこの議論に参加する資格はありません。
参加しても何にもならないのです。本人にとっても回りにとっても。
もう少し勉強してからいらっしゃいという他ありません。
もちろん現在の物理学はこんなレベルより遥かに進んでいますから、最先端での議論はアインシュタインレベルでウダウダいっている人にも理解できないと思います。
人は、自分が立っているレベル以下のことは良く理解できますが、以上のことは理解できないのです。
これは、音楽や物理だけの問題ではありません。
すばらしい考えや意見をまのあたりにしても、自分がそれを理解できるレベルでなければ、それこそ「猫に小判」なのです。
稽古というものは、理解に達するまでの蓄積を積むためのものであり、これには一定の物理的時間と忍耐が必要です。
そしてあるレベルに達するといろんなことが氷解してきます。
これが「分かった」という主観になって感動を生みます。
そして、そこを新たな出発点として更なる稽古を積みますと、また新たなレベルに達することができます。
そしてまた、感動を得ることができるのです。
道を極めるというのはこうした経過の繰り返しを行うことだと思います。
私自身はまだまだ全ての分野で極めたという心境には程遠いですが、こうした方向に努力したいという思いだけは持続して持っています。
追記
実はこの、
「人は自分が立っているレベル以上のものを理解することは難しい」
というタイトルは私の言葉ではありません。
通産省に総合エネルギー調査会という組織がありますが、
ここの、原子力部会で、原子力発電にかんする議論があり、
ドイツのハンデルスブラット紙のシュールマン博士がドイツでの原子力発電にかんするドイツ国民のコンセンサスについて説明する中での表現なのです。
これは、最近問題になっている原子力発電、是か非か、といった問題もからんで、ドイツではどうなのかといった点でも興味深い発言です。
博士はおそらくは原子力を反対ではないという立場での発言のようです。
でも、面白いですよ、ここの発言。
我々はドイツ人のイメージはなんか、合理的で感情をころし、原理原則に忠実といったイメージを持っていますよね。
反対にフランス人は芸術的ではあるが原理原則よりは感情を重視する、なんて。
でも、当のドイツであるシュールマン博士はここで次のように述べるくだりがあります。
「ドイツ語圏の人々は感情的でなかなか冷静な判断をすることができない、
フランスではいろいろとオプションを用意する考え方だが、ドイツ語圏の人々は・・・・・・・・・」
えー、ドイツ人はドイツ人のことを感情的だと思っているの。
ここの議論いろんな意味で大変面白いので興味のある方はホームページで公開されているので覗いてみてください。
http://www.meti.go.jp/kohosys/committee/main.htmlの中の
第67回原子力部会 議事要旨 (H11.9.21)
(平成19年2月10日アドレス変更のため更新)