現空研 新試合規則の真意 その2

2010/05/07


「人間は快楽のためなら大抵の事はやってしまう」
この事実をまず認める事から全ては始めなければならない。

快楽と一言で言っても、その内容はピンからキリまである。
一番根源的なものは動物的、本能的な快楽であるが、人間は残念ながらと言うべきか流石というべきかは分からないが、もっと複雑なレベルの快楽も追求する。

大体において動物的、本能的な自己に向かう快楽追求はあまり尊敬されない。
社会貢献や自己犠牲を伴う(しかし本人にとっては心地よい)ひねくれた快楽追求は尊敬されるケースが多い。

しかし今回は快楽の内容には深入りしない。
低レベルから高いレベルの快楽まで人はこれを追及しつづけるという事実を踏まえるということを大前提として話を進めたい。
快楽の存在とその追求こそが生命の存続のための最高のプログラミングであることは既に述べた。

人は快楽を妨害する障壁があると万難を排してそれを除外する反応を起こす。
それは意識、無意識、随意、不随意を問わない。
ジュラシックパークでマルコム博士がつぶやく Life finds a way はこの事を言っている。

人の行動原理の根源には Life finds a way があるのだ。
そして一旦道を見つけると次はもっと短い道(楽な方法)はないかという探求を始める。
そして最後に最短距離の道を見つける。
Life finds the shortest way というわけだ。

(プログラムされた)快楽の目的は自己保存だ。
戦いの場であれば自己保存を保障するものは「勝利」ということになる。
「勝利」のための shortest way を我々人間(だけでなく全ての生命)は常に模索する。
この段階においては道徳や倫理は考慮されない。

ここからがいよいよ本題である。
戦いをルールのある戦いに絞って考えてみよう。
ルールのある戦いではルールを破ることは負けを宣告されることなので shortest way は簡単には見つからない。

しかし、shortest way を探すのは生命の本能であるから、我々人間もこの呪縛からは逃れられない。
与えられた条件(禁止行為や評価のポイント)内での最高効率の勝ち方を探す。

これはあらゆる競技に当てはまる原理だ。
その競技自体が目的化したものであればそれは一向に構わない。

しかし武道の場合、特に空手においては事情がまるで違う。
武道の文化的な側面を剥ぎ取った本質は武術である。

武術とはいかに効率的に相手を殺傷するかという方法論だ。
要するに相手を殺すための shortest way を追求したものが武術である。

我々は武道としての空手を追及している。
さすればその本質は相手を殺すための shortest way を探求するものでなければならない。
こうして得た武術としてのノウハウを背景に、より高次元に文化的に昇華させたものが武道である。
逆に言うと武術としての追求をしない武道はもはや武道と呼ばれる資格はない。

我々は武術としての、つまりルールのない世界での shortest way を追求するためのエクササイズとしてルールのある試合を活用する。
理由はエクササイズでルールの無い shortest way を追求すれば死人の山となるからだ。

生きるための武術の追求で死んでしまったのでは本末転倒もいいところだ。
エクササイズにおいては安全性は絶対要件になる。

つづく

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