段位の意味
段(級)とはその人の空手のレベルを評価し、その結果を公に表明したものです。
現空研では、大人の場合、無級(白帯)からはじまり4級、3級(緑帯)、2級、1級(茶帯)そして初段(黒帯)というようになります。
白帯はいわゆる初心者ということになります。
4級(緑帯)というのは、大きな意味があります。
初めて帯に色が付き、帯に名前の刺繍が入ります。
初心者でなくなるのです。最低限の型と技を少なくとも知識としては知っています。
また、組み手においては自由組み手を行う能力があります。
3級(緑帯)になれば、組み手が面白くなってきます。白帯の頃の自分が嘘のように感じられます。
なお、現空研では飛び級でいきなり3級になる人も稀にいます。
上達の速度というのは、その人の素質や環境、熱心さの度合いなどで10人10色です。
現空研に入門する前に他流派で経験があったり、飛びぬけた運動神経の持ち主などで一気に昇級する人も中にはいるのです。
2級(茶帯)になると、一種の風格がでてきます。
何気ない基本の動作の一つ一つが空手という感じがにじみ出るようになります。
組み手では白帯の人は赤子の手をひねるという感じになってきます。
1級(茶帯)は、おそらく自分は強くなったという感じを一番強烈に感ずるレベルではないでしょうか。
組み手に関しては自分の得意技ができてきますし、初心者の動きはスローモーションを見るようにゆとりをもって観察できるようになります。
初段(黒帯)は、多くの人が目標にする偉大な到達点です。
現空研の場合は、いわゆる10人組み手という試練があります。
10人組み手の10人という人数は必須条件ではありませんが、10人以下の考慮をするケースは、あまりに過酷な状況(相手の大半が黒帯の猛者であったり、非人間的な高温の中での組み手だったり)にかぎりますので、実質的には必須に近いものです。
勿論10人組み手さえ達成できれば即黒帯というわけではありません。
現空研の黒帯として最低限身につけておかねばならない、技(突き、蹴り、受け、関節)の評価があります。
初段になれば、街中でのチンピラなどは素手であればぜんぜん相手になりません。
しかし、つまらない喧嘩には興味もなくなってきますし、不思議なことに喧嘩を売られることも少なくなります。
2段以上は従来(拳誠会当時)の基準、20人組み手、30人組み手に順ずるものですが、
従来どおり細かい基準は公表しておりません。
基準を公表すると、資格試験のように基準さえ満たせばよい、という考えにどうしてもなりがちだからです。
段位というものは、ボクシングのチャンピオン等と違って一度取ってしまえば余程のことがないかぎり剥奪されたり降格することはありません。
したがって、段位は現時点での強さを表すものではないのです。
人生の中で少なくともそのレベルであった事があるという証なのです。
ベッドに寝たきりの5段なんて人が居てもおかしくないのです。
じゃ段位なんてたいした意味は無いのか、
それは違います。
一度5段のレベルに達したことのある老人は、現時点で組み手を行うことができなくとも、少なくとも後輩や自分の子供、孫を指導したり的確なアドバイスを与えることはできるでしょう。
また、理不尽の暴力に襲われたときその時点、状況でとれる最適の判断をする能力は一般の人とは比べ物にならないでしょう。
現空研の2段は初段より上です。
3段は2段より上です。
そういう意味で厳然とした上下関係は存在します。(言うまでもないが空手においての)
この厳然とした上下関係と普段の和気藹々とした人間関係は両立できるものです。
上というのは強さは勿論ですが、空手の精神、意義の理解度です。
強さという面で考えた場合、すくなくとも昇段審査を受けた時点での絶対的な強さというものがあるレベル以上でなければなりません。
次に大事なことは、現空研の精神を後輩に伝えてくれる能力があるかということです。
伝える技法があるかということではありません。
口が達者であるということでもありません。
伝える技法も饒舌も一切必要ありません。
その人の存在自体が武道を体現しているか、武道家としての生き方をしているかということです。
身をもって空手道を実現しているかということです。
突き一つとっても蹴り一つとっても、その基本にかかわる理解というものがあります。
個人レベルでいうと先輩の教えに従い努力していきますが、なかなか思うようにはいきません。
ああでもないこうでもないと道場の教えと自分自身の試行錯誤の繰り返しで段々理解できていくのです。
その理解度を評価します。
この試行錯誤は期間が長ければ長いほど理解の度は深まっていきます。
経験とはこの試行錯誤の量のことをいうのです。
現空研は若い流派なので私は特にこの空手の理解、現空研精神の理解ということを重視しています。
現空研の精神はその源は空手の精神、広く言えば武道の精神、日本の精神ということになります。
武道を教えるというのは突き詰めれば人を殺す技術を教えることですから、その精神を軽視するわけには行きません。
身に付けた技術の用法も正しく理解し、それを確認すべきなのです。
これが他のスポーツや芸能と違うところです。