この4月よりある大学で非常勤講師として教壇にたつことになった。
現空研のkawa君が勤める大学でコンピュータ関係の講座を担当されていた先生が定年退官され、公募の情報とぜひというkawa君の薦めもあって応募してみたのである。
コンピュータ技術論(概論)という講座で私の専門とピッタリ合致したこともあり話が進んでこういう結果になった。
美術系の大学であり個性豊かな若者が多いということで大変楽しみである。
今までもプログラム関係の講習や講演で講師を務めたことはあるが、対象は皆コンピュータに何らかの関係のある技術者や関係者だった。
こうした芸術を専門とする学生たちに教えるといったことは初めての経験である。
昔と違って今は、技術系の学生だけでなく、どんな分野の人でもパソコンをどんどん利用する時代になってはいる。
また、パソコンも昔の大げさなコンピュータとは違って、より簡便にしかも高い機能を楽に使えるようになってきた。
しかし、あまりに機能が上がり、しかもそれを簡単に使えるようにソフトが整備されると、かえってコンピュータのしくみがブラックボックスになって、原理や基本を考える機会を失しているのも現実である。
それに、利用しているとは言ってもインターネットでブラウズしたりメールのやりとり、たまにワープロの機能を使うといったレベルの人がまだまだ主流だ。
しかし、芸術関係ではもはやコンピュータはなくてはならない存在になっている。
音楽ではシンセサイザー(音楽用途に特化したコンピュータ)の存在は商業ベースではその創作過程そのものを変えてしまったし、趣味の世界でもコンピュータはそのシーンを大きく変えた。
今のカラオケは殆ど音はシンセサイザーが出しているし、テレビのドラマやコマーシャルで流れるテーマミュージックも大半はシンセサイザーのものだ。
テレビショッピングなんかでバックで拍手や笑い声が入っているものが多いがこれも殆どはシンセサイザーで作られた音だ。
今や、人間の声、動物の鳴き声から嵐や火山の爆発、波の音などの自然界の全ての音はシンセサイザーで作れないものは無いといっても良いほど進化している。
美術、映像関係もコンピュータの進出はものすごい。
現空研のTaさんは、イラスト専門の会社を経営し自身もイラストレータであるが、仕事は全てマック(アップル社のパソコン)で行っているという話だ。
映画の世界でもCG(コンピュータグラフィック)抜きでは何もできないと言って良いほどそれを使うのは当たり前の世界になっている。
このようにコンピュータの利用という視点から見ると、最もコンピュータとは対極的な位置にあるはずの芸術関係が実は一番それを利用しているようにも感ずる。
そうは言っても、芸術関係も含めて一般の殆どの人はコンピュータはブラックボックスで、とてつもなく便利ではあるけれど何か得たいのしれない複雑な機械でその原理を知るなんて面倒だし必要もないと思っているだろう。
確かに全ての技術はその仕組みをブラックボックス化することで大衆化させることができ、誰もがその利益を享受できるようになってきた。
近代社会の仕組みそのものがあらゆるシステムのブラックボックス化で運営されている。
しかし、これを進歩という視点のみで捉えると危険である、というのが私の昔から一貫して主張してきた考えだ。
「デジタル版徒然草」という拙著でも何度もこうした観点で浅見を披露してきた。
昔、私と思想的な立場は異なるが「ベ平連」という反戦グループで活躍し、当時代々木ゼミナールで英語の講師をされていた吉川勇一氏という方がおられる。
この方が私のつくったデータベースソフトμCOSMOSを使って英語の入試問題集を構築されていた。※
その吉川氏から英語の試験の話を伺ったことがあり今でも鮮明に覚えている内容がある。
真っ白の答案に自分で英語を書かせるという問題が受験生が最も嫌がるパターンであるというお話だ。
要するに○×式や解答選択方式が好きな生徒が多いということだった。
これは、自分の頭で原理を知ってゼロから出発して何かを構築するということを嫌うという現代人の思考パターンに通ずるものがある。
要するに面倒なことはブラックボックスとして丸呑みし、利便性だけを追及するという今のコンピュータ利用形態の原型がそこに見て取れる。
この典型がWindowsというソフト(OS)だ。
このソフトの特徴は「イベントドリブン」に尽きる。
イベントドリブンという言葉をIT事典なんかで調べてもピンとこないかもしれないが、要するにコンピュータの世界の○×式、解答選択方式である。
プログラムを利用する時は勿論、作る場面においてさえ、メニューが画面に用意され適当なものをマウスで選択していくという方法が取られる。
それに対してコマンドラインでコマンドやステートメントを入力していくという従来のコンピュータの世界は白紙に答案を自分の頭で書いていくことに相当する。
Windowsが爆発的に流行したのはこのイベントドリブン方式の採用が最も大きな原因だったと私は捉えている。
これは、未知なものを不可知なものとして捉え味噌も糞もプラックボックスに放り込んで丸呑みするという思想だ。
確かにとっつきは良い。
まったく原理を理解していなくても、どれかを選択すれば何らかの反応はしてくれる。
分けがわからなくてもマウスをクリックしているうちに何とかなることも多い。
しかしこんな危険な仕組みはない。
コンピュータがスタンドアロン(独立)で使われていた頃ならいざ知らず、いまやインターネットで世界中のコンピュータが繋がれている時代だ。
こうしたシステムの真っ只中でわけもわからずクリックを続ける無数の善意の初心者達。
こうした基本的なシステムの構造を熟知した悪意のハッカー(クラッカー)は、あらゆる手段で非建設的なウイルスやその他のソフトウエアのメニューを画面に並べる。
そしてそれを無批判にクリックする無数の悪意のないユーザーが世界中にいて全てがオンラインなのだ。
拙著デジタル版徒然草の最終章は「コンピュータウイルスが棲む社会」でこうした無思考の大衆が生むブラックボックス社会の恐怖を予測したのは1988年であるからもう16年も前のことだ。
そこで、コンピュータウイルスは杞憂であって欲しいと記したのであるが残念ながら現実のものとなってしまっている。
私は今のインターネットとWindowsに代表されるイベントドリブン方式、そしてより簡便に利便性を追及することを良しとして発展してきた現代文化の基本思想との危険な融合は、今後想像を絶するカタストロフィー的事態がかなりの高い確率で起きるのではと危惧している。
これを防ぐ劇的な特効薬は残念ながら今思いつかない。
ただ、物事の基本原理を理解すること、そして分からないことを分からないまま何かの決定をしてしまう事をなるべく避けるという心構えを皆が持つということが最初の一歩ではないかとはずっと思っている。
幸か不幸か、空手のような武道の修得に関してはイベントドリブンの手法は一切通用しない。
格闘技のコンピュータゲームにどれだけ習熟しても実際の戦闘においては屁の役にもたたないのである。
どれだけ合理的な体系であっても基本的には地道な稽古と鍛錬を積み重ね体で覚えていく以外に上達の方法はないのである。
コンピュータの原理を理解し、そして真の応用ができるようになるのも私は空手と大差ないと思っている。
私自身に関して言えば、空手も音楽もコンピュータもそれを理解したり学習する原理は同じだという思いが強い。
自分の頭と体で体験し、実際に試し、自分が理解したり身に付いた事で次のステップに挑戦していく。
休んでも良いけど決してあきらめず続けていく事。
これが全てだと思っている。
空手の修得に関しては、私が理想だと思う方法を現空研で実行し、それなりの成果を上げていると自負しているが、この方法がコンピュータに関しても通用するのだろうか。
私は自信があるが成果はやってみないことにはわからない。
そういった意味でもこの大学での講義を楽しみにしている。
最初の講義はまずこうした話からはじめようと思っている。
※ 吉川氏は、私と考え方は異にするが、イデオロギー抜きでのお話は大変示唆に富んでおり、色々勉強させられることも多かった。氏はどう思われているか知らないが、いわば敵ながらあっぱれという関係かもしれない。この文章を書きながらgoogleで検索してみると何と氏のホームページがあった。その中の文献集に以下のものを発見した。
μCOSMOS でつくったデ−タベ−ス 英語入試問題集
直リンで申し訳ないのだが紹介しておく。