ヒット カウンタ

自分と違う考えを認めること


最近の雑誌や新聞、テレビあるいはインターネット上の論争などを覗いていて感ずることがある。
それは、自分の考えと違う意見に対する病的な拒否反応だ。

ある瑣末な意見の相違があると、それに対して過剰な反応をし、お互いエスカレートしていき最後は相手の人格否定に行きついてしまう。
ここのところの考えは俺と違うが尊敬できる奴だ、とか基本的には考えは反対だが敵ながらあっぱれな奴だ、という考え方にお目にかかることが少なくなった。

世の中にはいろんなイデオロギーや宗教、思想がある。
あと、人は皆どこかの国の国民として生まれてくるのであって、それぞれの国の歴史を背負った存在である。

そしてそれらは生まれてくるとき既に決定されたことであり自分で選択することはできない。
我々は常にそれを背負った人生を歩むのである。

そういう意味で人はその出発点で平等ではない。
しかし、どんな出発点からでも、人生を肯定的に考え、社会に対して建設的な思想をもち、自分の幸福を追求するのと同時に他人の幸福も思いやるといった考えはできるし具体的な実行も可能である。

大切なことは人間としての尊厳を自他ともに共有することである。
私は学生のときはいわゆる体育会的な思想が強かった。

全学連と言われる学生運動が盛んであったが、いつも彼らと対峙する立場であった。
京都にいた浪人のとき、全学連三派系のあるセクトの委員長と名乗る男に町の銭湯で頭を洗っているときいきなり殴りかかられ、風呂場の中でお互い丸裸のまま乱闘になったことがある。

石鹸でツルツル滑る床で頭からシャンプーがたれ落ちる中での戦闘ははたから見ればさぞ滑稽だっただろう。
私はなんとか彼の首根っこを捕まえて湯船の中に頭を突っ込み彼を取り押さえることができた。

私は彼を知らないし、いきなり殴りかかられる原因も心当たりがないので、彼が落ち着いた後理由を問いただした。
彼は京都大学の学生であった。私を対立セクトの人間と勘違いしたということであった。

その当時京都大学は学生がバリケードを築いて中に立てこもっており私が下宿していた吉田山の周辺あたりは一種異様な危険な雰囲気が蔓延していた。
その三派系の男は、私が人違いだとわかると素直に謝罪した。

しかも何らかのお詫びをしたいと申し出た。
私は、それなら言葉に甘えてということで、その時一緒に風呂に入っていた友人(私と同じ修猷館の同じクラス出身で後慶応大学商学部に行ったAb君)と行きつけのすし屋で特上の握りと酒飲み放題でどうだ、と提案した。(当時18、9歳で生意気にも既に行きつけのすし屋とか飲みやが我々にはあった。)

彼は、ちょっと待ったと財布の中身を勘定し、「良し分かった」と承諾した。
酒を飲みながら話を聞くと我々とはまったく違った世界、思想の中にいることが分かった。

当然考えはまったく異なるので激論になる。しかし彼には何か一種独特の魅力があった。
彼は「ゲバラ」という武戦派の革命家を尊敬しているようだった。

私は当時「一撃必殺」と書いた日の丸の扇子を持ち歩くような男だったから、その時のやりとりは傍でみていたらさぞ面白かったろうと思う。
彼とはその後京都大学の構内で再会し、「ヤア」「オー」と声をかけあったことがある。

私の友人はどちらかと言えばガクランを着た体育会系の人間のほうが多いが、高校の時からの一番の親友だったTは大学時代は共産党の民青で活動するようになったが、友人としての付き合いは変わらなかった。(Tは残念ながら既に故人である)

互いに人間として尊敬していたからだ。
しかしイデオロギーではいつも激論になった。

私は人間というのはイデオロギーや人種や宗教を超えた人間の道としての道理が存在すると思っている。
それは約束を守ることや自尊他尊の精神、年長者への礼儀、幼い者や弱い立場の者への思いやり、理不尽な暴力への対抗などである。

こういった人間の道理は太古から社会に存在し、それは人種、イデオロギー、宗教にかかわらず普遍のものであると思っている。
だから、人間はどんな思想の者でもそれが人間の道理にかなっているものなら友人になれるし、互いに学んだり、切磋琢磨しあえるものなのだ。

但し1つの例外がある。
それは、考えの違う者を許さないという思想の持ち主だ。

自分あるいは自分達の考えが唯一絶対のもので、他の考えは一切認めないという思想。
これは、こちらが相手を認めても相手はこちらを認めないわけでフェアではない。

現在の日本人に、特に何々主義だとか何々教だとかいうご大層なものではないのだが感情的に自分の考え以外を拒否する風潮が広がっているのを感ずるのは私だけではあるまい。
いわゆる利己主義がそうである。幼稚な利己主義を個人主義や個性あるいは自分らしさの発露などと都合の良い言葉に置き換えた精神不全者が増えている。

良いものは良いし悪いものは悪い。
それをはっきりと明言し、適切に行動にうつす。未熟な者には指導する。間違っている者には注意をする。もちろん愛情をもって建設的にだ。

一時の摩擦や不和を恐れることは所詮卑怯者の心情である。
自分に自信があり相手の人間としての尊厳を認めた上での意見なら必ず心情は通ずるはずだ。

私はいろんな異なる考えを持った人間がそれぞれの主張や価値観に従って生きて行ける、そして異なる考えの人間と自由に議論や討論ができる、そして合意や同調には達しない時でも互いの人間としての尊厳は尊重し合える社会が理想だと思っている。

最悪敵対することがあっても互いに敵ながらあっぱれといった心情を持ち合えるようでありたい。

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