ヒット カウンタ

武道の方法論、主観的境地、そして目的


先日久しぶりにK1の試合をテレビで見た。
なかなか好ファイトが続いて面白かった。

いくつかの対戦を見ていて感ずることがある。
もしこの対戦がラウンド数をボクシングのタイトルマッチなみに12ラウンドとしたらどういう試合展開になっただろうか。

ハードパンチャーのレバンナ選手やマークハント選手もあのような全力でのラッシュ攻撃をあのような形では出せなかっただろう。
あるいは昔の柔道の試合のように長時間あるいは無制限にどちらかが「一本」取るか相手が「まいった」をするまで中断なく試合を続けるといったルールではどうなったであろうか。

実戦に即して考えると、試合の時間というのは本来不定のものである。
状況によって一瞬にして勝敗がきまることもあれば、延々と膠着状態が続くこともある。

現空研でときどき柔道の指導をしていただくI先生は、昔自分の事務所におしいった暴漢と格闘になったことがあるそうだ。
そのとき相手を肩固めで極めたまま警察が来るまでの30分間押さえ込んでいたらしい。

その暴漢は顔見知りであるということであまり手荒なことはできず、しかし、体が大きく体力もあり酒を飲んでいて正気ではない暴漢は少しでも手を緩めると暴れ回り、結果として警察が来るまで生かさず殺さずで押さえ込んでいたそうである。

戦いの勝敗はいかに自分の力を100%発揮し、相手には力を出させないかで決まる。
例えば最初の30秒で自分の力を使い切るような猛ラッシュをかけた場合、成功すれば相手は倒れてくれるわけだが、相手が上手にさばいたり、あるいは打たれ強いタイプで倒せなかった場合、今度は相手が攻勢に出たときこちらはスタミナを使い果たしており負けてしまうということになる。

武道の総合力というのは、技(スキル)×力(パワー)×持続時間(スタミナ)で概算することができる。
高度な技を持ち、強大なパワーで、それを長時間持続できるスタミナがあれば最強というわけだ。

そしてそれぞれの分野を鍛えて総合力の向上を図るというのが普段の稽古や鍛錬の目的である。
しかし、こういった能力はある戦いの時点においては一定の力である。

実際に戦いが始まれば、自分がそれまでに獲得した総合力をどのように配分(消費)して戦いにおいて勝ちを獲得するかといった問題になる。
勝つためにはある時点で力を集中させ一気にたたみかける瞬間が必要である。

問題はその力の集中をいつやるかである。
開始早々、相手が十分な体勢を取る前に一気にラッシュをかけて勝負を決めるというのも一つの手である。

これは、手としては初歩の部類であるが、案外効果的な面もある。
特に、総合力としては上位の相手であっても相手が力を発揮する前に潰してしまえることもあるからだ。

しかし、最初の攻撃に失敗した場合は後半悲惨な敗北を喫するリスクも大きい。
逆に明らかに自分の方が総合力が上の場合は、相手のこうした一気の集中力に対しての警戒さえ怠ることがなければ、まず不覚をとることはない。

実戦の場では実際に戦いが始まらなければ相手の総合力が分からない。
極端に弱い相手の場合は大体外観や雰囲気で察することはできるが、体格が良かったり、人相が悪かったりすると実力以上に評価してしまうこともある。

また、度胸が座っていて喧嘩慣れしているような者も実際の総合力はやってみるまで分からない。
度胸は人一倍あるが実力は大したこと無いという者も中にはいるからだ。

逆に一見ひ弱そうに見えてやってみるとすごい実力のあるような者もいる。
また、道場でいつも組手をやっている相手であっても、相手がどんな作戦でくるかで試合の内容はずいぶん変わる。

相手が新しい防御の方法を研究していて受け主体で試合を組み立てているような場合と、覚えたばかりの連携技(コンビネーション)を実験していたがっている場合などである。
もちろんこちらの組み立てでも相手が変化することもある。

実戦で大事なことはこちらの総合力を如何に効率良く上手に使って勝ちを収めるかということである。
具体的には集中(勝ちに行く攻撃)と持続(スタミナの温存)の配分である。

初心者の組手(素人の喧嘩も似ている)は、相手が攻勢に出ると自分も全力で対抗し、相手が遠い間合いで様子見に徹すると自分もそのペースに巻き込まれるというパターンが多い。

特に当てる組手(フルコン)をやらせるとそれが顕著にでる。
まあ、お互い恐怖心があるので初めは恐る恐る様子を伺う。

そしてどちらかが意を決して攻勢に転ずると、相手もそれに対抗して攻勢をかけてくる。
そしてどちらかがスタミナが切れるか、ダウンするまでドスン、バチンとやり合う、といった格好だ。

これがある程度経験を積んでくると相手の攻勢に対していなすという技術が使えるようになる。
要するにフルパワーで猪突猛進してくる相手に対して、効果的ではあるが力をセーブした、つまりスタミナを温存させる攻撃、防御ができるようになってくるのだ。

このスタミナを温存させつつ、相手にはフルパワーに近いような攻撃をやれるような突き、蹴りというのが現空研空手の目標の一つであるということは、折に触れ道場で私が口にしている。

この技術というか境地を完全に自分のものにするには、私は次の段階を経なければならないと思っている。

第一段階

自分のフルパワーを一気に使い切るような攻撃をタイプの違う者を相手にして数多く十分に経験する。

この段階で、素手の拳がいかに弱いかといったことや手首が弱いとどういう怪我をするかとか、フルパワーの攻撃モードではいかに強い相手であればカウンターをもらいやすいのか、といったことを体で知ることになる。
自分を限界まで追い込むといった経験はより上を目指すためには避けて通ることはできない。

簡単に足払いで倒されたり、寸止めでは決してもらうことのないような前蹴りや回し蹴りを簡単に食ってしまうという現実を体験することも大事だ。
そしてフルコン未経験者はフルパワーであれば30秒で正拳突きさえまともに出せないほど消耗しつくすことも知るだろう。

ただ誤解しないでいただきたいのは、限界まで追い込む経験といっても、危険な組手や無茶な筋肉トレーニングという意味ではない。
健康や安全に十分留意し、正しい指導管理の元、自分の限界に挑戦するという意味だ。

この場合の敵は自分の弱気と怠惰な気持ちである。


第二段階

スタミナを温存させるための攻撃方法を会得する、一方打たれ強い肉体に強化する努力を積む。

この段階では強力ではあるが自分を一気に消耗させない効率的な突き、蹴りを理屈ではなく体に覚えさせるということが大事だ。
当然そのような突きや蹴りを自分が受ける場合も想定されるので、受けそこなった場合の耐久力の強化も重要な課題になる。

この段階に達した者は、組手をするとすぐわかる。
落ち着いた自信が生まれるので、組手にあわてたところがなくなる。

妙に強がったところもなくなるがゆったりとした攻撃精神で攻撃力を集中させるべき一点を模索するようになる。
こうした者同士が対戦した場合は、静かであっても一触即発の緊迫感が漂う。

もっとも初心者が上級を気取って形だけまねしても滑稽なだけである。
初心者はまず第一段階のクリアが必須なのだ。

第三段階

戦いの原点を初心に返って見つめなおす。

第二段階をクリアした者は、ある意味で格闘の本質を理解した者である。
技とは何か、力とは何か、そして極限状態での持続力の不思議な力も実感した者だ。

この段階の者は、やった者だけがわかる世界を共有することができる。
例えば遠泳を数多くやった者はわかると思うが、遠泳の途中で永遠のパワーを感ずることがある。このまま無限に泳ぎ続けることができるのではないかといった感覚である。

私は何回もこの経験した。
事実このモードに入ったら疲労というものを全く感じなくなる。

実際には不可能だろうが感覚としては永久に泳ぎつづけられるような気持ちになり、数時間泳ぐなんてまったく平気になるのだ。
長距離ランナーがトレーニング中にランナーズハイといったこれに似た感覚をあじあうことがあるらしい。(私はこちらは経験したことがない)

組手をしていてもこれに似た境地になれる。
フルコンでいくら突いても蹴っても疲労を感じなくなる状態だ。

この感覚も実際体験した者しかその感覚を共有しえない。
だが、私がここで言いたいのはこの感覚の体験が最終目的だということではない。

むしろ逆だ。
というのはこの感覚は味わった者は分かると思うがある意味実に神秘的な体験だ。

まったく異なる自分の発見とでも言えば良いのかな。
人によっては宗教的とか奇跡といった言葉を使うかもしれない。

ここに危険性がある。
激しいトレーニングを続け、自己との戦いに勝ってあるとき突然達した境地。

これを古来からの武道の「さとり」といったものに解釈してしまう危険性があるのだ。
私自身は大変感動したけど、この現象自体は生理学的にはドーパミンとかエンドルフィンといった物質の発生といったレベルで説明のつくものであるだろう。

過大評価すべきではない。
遠泳やジョギングならこう解釈しても差し迫った危険があるわけではない。

しかし、我々が行っているのは武道である。
武道というのは常に相手(敵)を想定している。

どんなにこちらがトレーニングしていて、またどんなに強靭な精神力に鍛え上げていても、またどんな境地に達していようとも相手がより強ければ負けるのである。
つまり、戦いとは相対的なものという原点を忘れてはいけないということを言いたいのだ。

自分はこれだけの努力し、これだけの力を身に付けた。
そして、道場の組手ではよほどのことがなければ不覚をとることも無くなった、といっても世の中には想像もできないほど強い者もいるかもしれない。

また、自分より総合力は劣っていても、決死の覚悟で瞬間的に奇跡的な力の集中を行った者には不覚をとるかもしれない。
戦いというものは本質的に結果が不定なのだ。

そして我々はその戦いと無縁で生きていくことは難しいという現実がある。
そこに武道というものが生まれる本質的な理由がある。

武道にはこうした現実(戦い)を正面から見据えて常に戦いの場を想定し、その場で、人として最も良い対処の方法を追求していくことに第一の意義がある。


武道にはゴールは無い。
武道の目的はゴールを目指すことではない。

武道の目的は戦いの場での自分の処し方を鍛錬することである。
武道とは日々の生き方そのものでもある。

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