2009/04/28
バケツ一杯の墨汁を白壁に適当にぶちまけたとする。
どうなるだろうか。
前衛芸術的と言うべきかどうかは分からないが、均一の灰色には絶対ならない事はほぼ間違いない。
何度やっても、同じ模様には二度とならないだろうが、決して均一にならない。
真っ黒な部分、逆に全く汚れない真っ白な部分がかなりの面積残るだろう。
例えば壁に任意に10Cm の間隔で方眼紙のようにラインを入れてみる。
そしてできた任意の正方形に注目する。
壁全体の黒、白の割合が仮に50%づつだったとしても、その任意の正方形で黒、白の面積が50%のものは驚くほど少ない。
私が何を言いたいのかわかるだろうか。
例えば、墨汁を人生における不幸だとする。
確率50%の不幸が全員に降りかかってたとき、個人レベルで50%の不幸を被る人はごくわずかであるということだ。
殆ど幸運なグループと不運のグループに分かれてしまう。
全く被害を受けなかったつまり真っ白のまま残った人も多数いるだろうし、真っ黒な人も同様に多いはずだ。
恐らく平均値であるはずの不幸率50%の人は殆どいない。
運命の神様はこれほど不公平なのだ。
確率50%の事象で50%を期待値として行動すると、とんでもないことになる。
世の中には幸運な人や不運な人がいる。
これは残念ながら事実である。
今現在、「自分はなんて不運な人生を送っているのだろう」と嘆いている人もきっといるだろう。
こういうとき生半可な数学的知識を持っている人が、「人生の運、不運は確率的に考えれば大数の法則にしたがって統計的な平均値に収束するのだから、不運で愚痴をこぼすあなたは間違っている」、「自分だけ不幸をしょっているという考えは被害妄想だ」というよな意見をもっともらしく述べる例は多い。
しかし、数学的に見れば、こうした運、不運は厳然として存在する。
もっとも本人の自覚が正確であるかどうかは全く別であるが。
問題は、世の中の森羅万障は不公平な運命の神様のもとで起こっているという事実を正しく認識し、全ての対処をこうした前提で行うにはどうしたら良いかという点にある。
よく、「これだけ負けが続いているのだから確率的にそろそろ勝つころだと思う」とかその逆を言う人がいる。
これも全くの誤りである。
確率的にどれほど珍しい(と主観的に思っている)事が連続しても、それはこれから起きる事には一切無関係である。
サイコロで連続同じ目が続いても次の一回でその目が又出るる可能性は常に1/6であり、逆にそろそろ違う目が出るという思考も意味がない。
世の中には残念ながら不運続きの人は存在する。
しかしそれは明日の不運を予定するものでは決してない。
我々人間は基本的に弱い存在である。
不運が続けば気弱になるし、幸運が続けば強気にもなる。
しかし、不運、幸運が続く人は決して珍しくなく、自分がたまたま不運の中に居たとしてもそれは特殊な例ではない。
我々はまずこの世の中の非情ともいえる実態を正しく認識してそこからどういう風に生きるかを考えなければならない。
最近面白い本を読んだ。
経済評論家の勝間和代さんの著書「起きていることはすべて正しい」。
これは、こんなはずではなかったとか、恨みやねたみが先にたつ後ろ向きの生き方から、全てを受け入れそこから前向きに行動していく指針を示したものでありなかなか説得力のある本である。
この本の題名の付け方もセンスを感じる。
しかし、ちょっと注文をつけるとすると、「起きていることは全て正しい」は正しくない。
どちらかといえば「起きていることはすべて正しくない」と言うほうがより正解に近い(正解ではない)
要するに、世の中は起こりそうもないことが意外に多く起こり、不公平でいびつな事と平凡な事とのごちゃ混ぜの集合なのだ。
だから、本当に客観的に見て不幸の連続って人も思ったより多く存在するし逆の幸せ者も意外に多い。
しかし、このタイトルを批判するのが今回の目的ではない。
多くの人は不運が続くと、悲観的になり、建設的な思考ができにくくなる。
そうして潜在的に持っている力を発揮しないまま沈んでしまう人が少なくない。
勝間さんは、そうしたマイナス思考を戒める意味でこの本を書いたであろうし、内容に関してはすばらしい。
「起きている事は正しくない(必然性の乏しいあるいは低確率の)事が意外に多いかもしれないが、それも含めて起きていることを容認することが正しい」と勝間さんの言葉を勝手に意訳しておく。
まあ、こんな題名では本は売れないが。
「どうなる」ではなく「どうする」という主体的な生き方には賛同する。
昨日まで負け続けていても今日はこれから始まる連勝の初日かもしれないのだ。