空手の醍醐味の一つに体の小さなものが大きなものを倒すことができる、ということを挙げることができる。
もっともこれは空手には限らない。
小柄な人の多い日本では柔道などのように、もともと「柔よく剛を制す」という言葉から命名されていることからもわかるように、本来非力な者でも強者を倒すことができる技術として発祥した武道が多い。
大相撲のようにもともと大きくて強い男をますます鍛えて大きくし、その強い者同士の格闘を楽しむといった世界もあるが、護身術として発展した武道は、本来は弱い者を強くするための手段として発達したものである。
柔道しかり、空手道しかりである。
柔道で言えば、かの史上最強と言われた木村政彦氏でもそんなに体は大きなほうではないし、背負い投げの古賀選手もあの小さな体で全日本選手権(当然体重は無差別)で2位になっている。
しかも、決勝戦はあの巨体の小川選手との死闘である。
小川をして腰をひかせ腕をつっぱる完全防御の体制においつめるまで攻勢をかけていた姿は今も脳裏に焼き付いている。
最後は、一瞬の隙をつかれて押さえ込まれてしまったが、私は内容的には古賀の勝ちと今でも思っている。
その、えりをがっちりつかんで勝負する柔道でさえ、技を極めればこういうことができるのである。
まして突き蹴りを急所にいれて相手を倒すことだけを追求してきた空手である。
小よく大を制する可能性は柔道よりはるかに高い。
現空研は、体が大きくて強い人は多いけれど、体が小さくて強い人もいる。
私は、現空研の会員には常に「自分より身長が20Cm高い相手を想定して稽古しろ」と言っている。
例えば身長が160であれば180を、170であれば190の相手を想定するのである。
このくらいの身長差は、空手というか実戦では大して問題にはならない。
これくらいの身長差なら上段蹴りでアゴを蹴り上げるくらいはわけなくできる。
逆に、自分より小さい人に会心の中段突きは入れるほうが難しい。
私自身もどちらかというと小さくて強い人が苦手である。
大きくて強い人ももちろん相手にするのは大変であるが、小さくて強い人というのは、皆共通した凄みがある。
技術的なことはここで一言ではとても語り尽くせないので、今回は省くが、一つ精神的な面での特徴を指摘することができる。
不退転の決意とでも言えばいいのか、逃げない姿勢と言えばいいのかちょっと言葉が思いつかないが、かつて極真会館の選手でのちキックボクシングで活躍した大沢のぼるという人の精神力がそれである。
空手をやっていて彼を知っている人ならそのファイティングスピリットの凄まじさは理解できると思う。
彼はキックボクシングでグローブをしているにもかかわらず完全な空手の突きで相手をKOしていた。
そして、キックボクシングでも強かったが、グローブなし(実戦)でやったら彼の強さはあんなものではないだろう。
その凄みは10年一日のごとく単調な鍛錬で鍛えに鍛えぬかれた自分の拳に対する有無を言わせない自信がもたらすものである。
彼の強さは体の大きさは関係ない。
もし君が体が小さいということで、空手を始めることを躊躇しているとすれば、それはぜんぜん的外れな考えである。
ボクシングのようにグローブをした競技や、顔面なしのフルコンルールではやはり体の大きさは有効な武器の一つであるが、もし禁じ手無しで、互いに素手の実戦であれば、体の大きさというのは君が考えているほどのハンディではない。
およそ、あらゆる武道は弱い人間を強くするという発想が根にある。
小よく大を制するというのが空手のいや武道の真髄である。
しかし、大きくて弱い人も世の中には大勢いるわけだから、この言葉は正確ではない。
弱よく,強を制すると言いかえたほうが良いかもしれない。
しかし、強を制するものは、既に弱とは言えないか。
体の大きな人はもちろん鍛えることにより、より強くなれることはもちろんだが、体が小さいからといって、あきらめる必要はまったくないのだ。
私は、ルールなしの戦い(実戦)を想定する空手という観点からみる限り、体の大小は出発点の多少のハンディはあるにせよ究極の到達点に差はないと信じている。