最近、よく耳にする言葉で少しひっかかるものがある。
いろんな凶悪事件や、事故などが起きた時、その責任者や代表者が必ずといってよいほど口にする言葉、「あってはならない事」だ。
小さな子供が理不尽な暴力でひどい目にあったり、大きな事件になった場合、責任者や有識者が会見やインタピューで言うシーンをよくテレビなどで見る。
それは確かに「あってはならない事」であり、言っている事が間違っているわけではない。
しかし、私はこの言葉をすんなりと聞く気になれない。
理不尽な事件が起きたとき、それを「あってはならない事」とは誰もが思うことではあるが、まるで判で押したごとく、口にするのが不愉快に感ずる。
原因の一つは、この言葉には責任の所在を明確にしない効果があるからだ。
現実に起きたこと、あるいは起きることが十分予想されたにもかかわらず、「あってはならない事」という事で責任の所在が不明確になる。
こんなひどい事は想像することもできませんでした。したがってこういった件は想定の範囲に入ってなく、想定できないことに関しては対策の打ちようもないわけで、したがって私には責任はございません、というように聞こえてしようがない。
そもそも不心得者や変質者の行動は一般人が通常考える範囲を超えているのが普通であって、あらゆる犯罪は全て「あってはならない事」なのだ。
したがって、ことさら意味ありげに宣言するような文言ではない。
もう一つの原因は「あってはならない事」という事でいかにも本人が善人であるといったことがアピールできる(と思っている)点だ。
被害者の家族や関係者あるいはマスコミを前にして、責任を取らない安全地帯から、さも同情を寄せたような響きを持たせることが可能な便利な言葉なのだ。
この「あってはならない事」という言葉を好む風潮は、特に最近めだつようになってきた。
武道の意義を論ずる場合に必ず話題になるのが正当防衛の話だ。
理不尽な暴力の標的にされたとき、どうすれば良いかといった事が議論になった場合、武道推進論者あるいは肯定論者の正統防衛の議論に対して、そもそも武力の争いそのものが「あってはならない事」なのだといった言い方で反論してくる人たちがいる。
そもそも、「あってはならない事」という言い回しを使う文脈には主語の感覚が希薄だ。
あらゆる事件は、実際には誰かが起こし、誰かが被害者になる。
そして、それを未然に防がねばならない責任者にとっては、起きた事件は本人の不覚であり失策である。
どんな事件や事故もそれが「あってはならない事」と呪文を唱えていれば無くなるものではない。
責任者にとっては「あってはならない事」は、「防がなければならない事」であるし、「起こしてはならない事」であるべきだ。
だから、「あってはならない事」が起きたときは「防げなかった事」として認識すべきことである。
広島の原爆死没者慰霊碑に記されている「安らかに眠ってください/過ちは繰り返しませんから」という有名も文言がある。
これも、主語が不在の言葉である。
この広島の原爆に限って言えば、投下したのは米軍であって、この文言は米軍が主語でなければ意味をなさない。
しかし、この慰霊碑をたてたのは当然我々日本国民である。
しからば、これは正確には「過ちは繰り返させません」でなければおかしい。
この件は、今までも論議されたことはあるらしいので、今回はこの件だけを追及するつもりはないが、この件も一つの象徴としてこういった主語不在の、一見理想主義の体裁をもった意味不明の文言は現在の日本に溢れかえっている。
主語、つまり「誰が」という特定をわざと曖昧にすることによって、責任や義務を負うことから逃れ、誰にも攻撃されない安全な所からきれい事だけを並べる風潮の万延が現代社会を腐食している。
同根の問題だと思うが、「強くなれ」という武道の精神に対して病的な拒否反応を示す人達がいる。
強くなる事を短絡的に暴力的になるという事に結びつける人々だ。
そういう人達の座右の銘もやはり、理不尽な暴力は「あってはならない事」というお題目だ。
正当防衛とか護身術といったものは「あってはならない事」が起きたとき、どういう行動をとるべきかという方法論である。
それなのに、「あってはならない事」が起きたときを想定するのは、それ自体が既に暴力的な考えだと主張する人もいる。
こちらが無抵抗であれば暴力は発生しないと本気で考えている人達だ。
そういう人達にとって、ひどい暴力事件が起きれ時はそれを「あってはならない事」と呪文を唱えることが免罪符なのだ。
再度繰り返す。
「あってはならない事」はあってはならない事である。
間違ってはいない。
しかし「あってはならない事」と唱えることでは何の解決にもならない事は、この言葉が氾濫する現代社会の風潮そのものが証明している。