2016/01/19
空手を始める人の動機のトップは「強くなりたい」である。
しかし、ひとはなぜ強くなりたいのだろうか。
自分が平穏無事に生きて行くためだろうか。
多分それは違う。
自分のためだけなら、わざわざ好戦的な武道など選択しないでもっと平和的な趣味の世界に浸っていてもそれは達成できる。
現在の日本社会ではむしろ弱者を装うほうが効率が良いという見方さえある。
しかし「強さ」には有無を言わせぬ魅力がある。
それはなぜだろうか。
それに答える前に一つのエピソードをご紹介しよう。
新撰組と言えば知らない人はいないと思うが、その中で最強の腕前の持ち主は誰だったのだろう。
所説あるが、沖田総司より腕がたった永倉新八が筆頭だったのではないかと言われている。
その永倉は晩年北海道で孫たちに囲まれて平穏に生きていたが、ある時芝居小屋の入場をめぐり、地元のチンピラ数名に囲まれて連れていた孫たちが暴行を受けるという事件があった。
永倉は持っていたステッキで3人に突き入れるとチンピラどもは悶絶。さらに鋭い眼光で気合いを発するとドスを手にした残りの者も真っ青になって退散した。
晩年の永倉新八 中央
この時の永倉のような状況は今のギスギスした社会でも形は違っても意外に多い。
年配者をいたわるという世相はとうの昔に失われ、認知症などの流行(?)とともにやっかい者としての存在がクローズアップされ公園などでもホームレスが襲われたりするニュースが後を絶たない。
こうした状況に運悪く出くわしたとき、一人なら逃げるなり謝るなり何とか命を守れるかもしれない。
しかし、孫がいたり連れ合いがいたらそう簡単にはいかないかもしれない。
もし自分に力があれば選択肢は各段に増える。
勿論、腕力があれば全て解決できるわけではない。
しかし腕に自信があればまず冷静になれる。
ゆっくり話をする心の余裕も持てる。
最悪のケースに至っても選択できる対抗手段の数は増える。
永倉新八のようにカッコ良いふるまいはできなくても、むざむざ相手の暴力のなすがままにされるということは無くなる。
世の中には悪人なんていない、社会が悪いから人をそうさせるのだという平和主義(?)の人たちはいつの時代にもいる。
仮にそうだとしても、目の前にある危機に対するには咄嗟の知恵とそれを下支えする力は必要だ。
自分だけでなく守るべきものがあれば。
もし自分はもう中高年だからとか、今更空手なんかと思っている人に問いたい。
守りたい人が目の前で襲われたたらあなたはどんな行動をとりますか?
空手を始めるに遅すぎる年齢なんてない。
空手は何歳からでも始める事ができるしそれを一生涯貫くこともできる武道だ。
興味が少しでもあればぜひ道場を覗いて欲しい。