1ランク上の空手
現空研を立ち上げ、旧拳誠会当時からの黒帯に加えて新体制での黒帯もだいぶ増えてきました。
私が理想としてイメージを持っている空手の姿に一歩づつ近づいている人たちがでてきております。
現空研の目指す空手は、職業格闘家ではありません。(結果的にそれを目指す人がでてくることは一向かまいませんが)
普通の職業を持った人や学生が生活の一部として武道としての空手に親しみ、そしてそれを自分の人生に生かせるような空手、それが目標です。
健康維持やストレス解消といった一般のスポーツと共通した目的もありますが、本題は護身の武道としての空手の追求がその根本にあります。
完全な競技としての空手あるいはスポーツとしての空手であれば、あらかじめ決められたルールにのっとり、その中で創意工夫をしトレーニングをしていくという一般のスポーツと同じような取り組み姿勢で良いのですが、現空研は普通の職業を持った人が行うという前提ではありますが目標はあくまで武道としての空手です。
昨日は、黒帯の人たちを中心に、以前から少しづつ話していたことをより明確な形で話をしました。
それは、「打たせる空手」ということです。
「打たせる空手」というのは言葉の上では大変な矛盾です。
そもそも、伝統的な空手の教えの中には「人に打たれず、人打たず」という有名な文言もあります。
これは、大変すばらしい言葉であり、やはり空手の最終的な目標というか到達点の心情を上手に表現した言葉であると思います。
しかし、問題はこの境地というか技術レベルにどうやれば到達できるかということです。
私は若い頃いわゆる寸止めと言われる空手をやっていましたが、本当に当てたり当てられたら実際はどうなるのだろうという疑問を常に持っていました。
剛柔流は当時は最も荒っぽいと言われた流派であり、実際は組み手でボコボコ当てるということは普通でした。
また他の流派でも大学の空手部などの実態はどこも似たような状態でした。
しかし、それでもやはりこの疑問は消えませんでした。
なぜなら、組手でボコボコ当てていても、そこには本当は当ててはいけないというルールがあったからです。
当ててはいけないが、多少当たることは容認する、といった暗黙のルールの元での当てる行為だったからです。
素手の格闘で一切のルールを無くした戦いであれば、殴る技術を持った者が本気で殴った破壊力と当ててはいけないが容認された範囲内で当てるといったレベルの破壊力は相当かけ離れていると考えるのが妥当です。
ですから、どれだけ当てる空手をやっても一切のルールなしで破壊力に関してはやはり多くの未知のゾーンがあったのです。
現在は防具をつけたりいわゆるフルコンタクトルールあるいはグローブマッチなど、そうした疑問点を解消すべくいろいろな創意工夫が多くの空手家たちの努力で実を結びつつあります。
しかし、一般の職業人に安全にしかも武道の本質から離れずに、ということになるとなかなか難しい点もあります。
それでも、私は安全にしかも最強を目指すという道を追求したい。
そしてそれを多くの人に理解してもらいたい。
その方法として最初に述べた打たせる空手というのがあるのです。
打たせる空手の詳細は言葉だけで伝えることは不可能ですから、後は道場での指導を通して実践してもらうしかないのですが、要点は、相手の射程内に身をおいて突き、蹴りを受ける稽古をするということです。
受けるといっても無為無策で打たれっぱなしということではありません。
避けるでもなくさばくでもなく逃げるでもなく一瞬の身のこなしあるいは体勢で衝撃を殺すのです。
最初は打つ方に遠慮がなければ打たれっぱなしになります。
ですから慣れないうちは防具を着けたほうが良いでしょう。でも慣れてくれば防具はだんだん必要なくなってきます。
打たれ強くなるといった面もありますが、体が瞬時に打撃を殺すような反応するようになってくるからです。
特に下段の蹴りは打たれることによって体が防衛反応するようになることが顕著です。
私は、今でも時々若くて元気の良い人に力いっぱい下段や中段を蹴ってもらうことをします。
大抵は蹴る方が耐えられなくて、場合によっては立ってられないくらいのダメージになることもあります。
私にはあざ一つできません。
効くこともありますが大抵の場合はほとんど痛みすらありません。
私とて最初からこうだったわけではありません。
昔、トクマンというボディビルディングで鍛えた筋肉マンに思い切り下段を蹴らせたところ、翌日どうも足が変なのでレントゲンを撮ってみると骨が折れていた、というような失敗もありました。
ある時期私は故あってあらゆる攻撃を足を踏ん張って三戦の要領で全部ガチンコで力を受けるということに徹していたことがあるのです。
トクマンは私のことを岩だと言っていましたが、岩でも壊れることはありました。
トクマンがあの頃は私の車が道場に来ると小便に何度行きたくなったと話していましたが、
私としては上腕囲が50Cmもあるような筋肉マンは私の理論を試す格好の対象でもあったのです。
そして色々な実験や創意工夫の結果現在黒帯に教えている防御方法にたどりついたのです。
ただ、やはりこのような技は白帯程度では無理ですし、やらせてもかえって害があります。
最初は、基本どおりに受け、さばく、という動作を身に付けねばなりません。
普通の受けやさばきが無意識にできるレベルになって初めてチャレンジするべき技なのです。
こうした技を体得すると、最初のメリットとして、当てる組み手に対する恐怖感といいますか緊張感がかなり低減します。
とくに、接近戦において常に冷静でいられるようになります。
というか接近戦に持ち込んだとき、相手の浮き足立つ様子が手に取るように見えるようになるのです。
打たれ強い体というのは実はこのように技として身に付けるものなのです。
もちろん、体は持って生まれた体格や体質またトレーニングによって獲得した骨格や筋肉で構成されています。
こうした体本体としての物理的な力を無視することはできません。
何のトレーニングもしてないし技もないのに打たれ強い人というのも多分いるでしょう。
しかし、私は自分自身の経験から人は生まれつき持っている資質の何倍も強くなれるということを確信していますし、実例もたくさん見てきました。そしてベストであるかどうかはわかりませんが少なくともその方法論の一つを知っています。
打たせる空手がそれなのです。
打たせる空手を稽古することにより、打たれることを体が体でおぼえていきます。
そして打撃を殺す技術は理屈ではなく体の反応として体得されるのです。
その技術は体で覚えたものですから自転車の乗り方のようなもので、年をとったから忘れるという性質のものではないのです。
勿論体を鍛えてなかったり病気や故障で体力が衰えていけば昔は耐えられた衝撃に耐えられなくなることは当然ありますが、それでも被害を最小にする効果は自分のものとして残ると思います。
そして、これまた逆説的なのですが打たせる空手を行うことにより、打たれることが少なくなっていくのです。
実践している人は分かると思いますが、打たれることが平気な人と打たれることが怖い人では勝負になりません。
とくにフルコンタクトやそれに類するガチンコのルールあるいは実戦においては、打たれることが怖い人というのはその人が持っている能力はほとんど発揮されないまま終わると言っても過言ではありません。
打たれることが怖くない人は、相手の動きを余裕を持って見ることができます。
そうすると、今度は打たれる前に余裕を持った体さばきができるようになり、結果的にあまり打たれなくなります。
打たれる事が怖い人は打たれてもかまわないような弱い攻撃やフェイントにも過敏に反応しすぎ無駄なエネルギーを消費します。
そしてすぐ息が上がってやがて致命的な攻撃をボコボコ受けるということになるのです。
俺は必死に防御していても結果的にボコボコ当てられているので、あえて打たれる稽古なんて必要ないなんて考える人もいるでしょう。
これは全然ちがいます。
積極的に打たれてみる(打たせる)のと力尽きて打たれるのは全然違うのです。
状況をどちらがコントロールしているのかが問題なのです。
最終的というか本来の組み手においては当然受けも行います。
打たせる稽古を十分積んでいれば打たれると致命傷になるような攻撃は受ける前から体が感じ取るようになりますし、自然に上手に受けられるようにもなります。
つまり空手が上手になり強くなるのです。
上位の段を目指す人は必ずマスターして欲しい技術でもあります。
そしてもう一つこの稽古に必要な資質があります。
それは勇気です。
勇気の無い人はどんなに体力があっても、運動神経があってもこの稽古ができないのです。
最終的に空手が強くなる人は勇気のある人です。
勇気と時間があれば、それ以外のほとんど全ての欠点はやがて克服されていきます。
いや勇気そのものも、そうありたいという意思を持続できればやがて獲得できるものです。
最後に注意するまでもないとは思いますが、打たれることが完全に怖くなくなるということはありません。
あくまで相対的な意味です。
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