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数学の神様ピタゴラスは殺人鬼だった。     論理数学演習その1

東京造形大学 コンピュータ技術論 第12回講義

2009/06/25


今日の講義は理系の分野を勉強するコツを皆さんに伝えるためのものです。

もちろん単なるお話だけでなく後半は前期試験にも関係のある話になりますのでよく理解するようにしてください。

 

今日のビデオの撮影は彼女に依頼 ↑

 

数学や物理は、これが好きな人と嫌いな人とにはっきり別れます。
そのきっかけは多分試験のための勉強にあります。

 

語学や社会科、経済、法律といった社会生活に直結した知識ではないのに、中学、高校と結構難しい理論や公式を覚えさせられます。
何のために勉強するのですかと問えば「論理的な思考をするための基礎となるから」といった何の解答にもなっていない解答が返ってきます。

 

実数とか虚数、対数や三角関数、微分、積分といったものを知らなくても論理的な思考なんていくらでもできます。
そもそも、三角関数ができることや万有引力の公式を知っていることにどれほどの意味があるのでしょうか。

 

実生活に関しては全く意味がありません。
万有引力の法則を知っていたから命が助かったとか金儲けができたという事はまずありません。

 

ではその存在意義は?
なんのための勉強なのでしょう?

 

 

結論を先に言ってしまえば、それは「楽しむ」ためです。
数学や物理はわかると楽しいのです。

 

それも死ぬほど楽しいのです。
アルキメデスやガリレオやニュートンも死ぬほど楽しいから没頭したのです。

 

彼らは天才だから楽しむことができたのだろう、という反論が聞こえてきます。
それはまったく違います。

 

カラオケ歌って恍惚としているオヤジは決して音楽の天才ではありません。
でも、彼が死ぬほどかどうかは分かりませんが楽しんでいることには間違いありません。

 

だからと言って、数学をカラオケのように楽しんでいる素人数学者(?)はあまり見かけることはありません。
なぜなのでしょうか。

 

その答えの前に。
殆どの学問は、その発展の原動力は「楽しさ」にあります。

 

「役に立つ」とか「立たない」といった観点からでは決して人はそれに没頭できません。
義務感で行う事には限界があるのが人間の本性です。

 

楽しいことは、全てに優先して行うのが人間の本性です。
というより、全てに優先して行いたいという気持ちを「楽しみ」というのです。

 

死ぬほどの「楽しさ」のことを快楽ともいいます。
この快楽という魔力の前には全ての義務感は吹っ飛びます。

 

 

この快楽から発展した学問。
その学問の結果をいろいろ実利的な応用に使うといった事は事後的な産物にしかすぎません。

 

しかし、当然のことながら学校や社会を含む我々の良識的な世間は、学問の原動力を「快楽」に帰結させることには極めて消極的です。
どうしてもその原動力を「役にたつ」しかも「人生に」とか「社会に」とか「国に」といった目的語を付けた形で言いたがります。

 

それでも、美術や音楽のように多少なりとも楽しさが想像できる分野は外向きのお行儀の良い存在理由でも良いのですが、数学や物理といった楽しさの具体的なモデルがなかなか想像できない分野では、「役に立つ」といったお行儀の良い理由のみをモチベーションとして勉強しなければならないのです。

 

その中では、数少ない楽しさの例としてパズルのようなものもありますが、これもせいぜい整数を使った算数程度のものが大半で、微分、積分を使って解くパズルなんて、もはやパズルの範疇に入れてもらえないでしょう。

 

大半の学生は「快楽」ではなく「役に立つ」といったお題目のもと義務感で微分・積分の学習をするはめになるのです。
これでは、数学が好きになるわけはありません。

 

数学とは本来面白くてたまらない代物です。
今日は、この数学の面白さの一端をお話しします。

 

これを聞いた後は皆魔法にかかったように数学に興味が湧いてきて、楽しくなり、やがてそれなしでは生きていけないくらいのめり込んでいく事は間違いないでしょう。
いったん面白さが分かれば、それは快楽の世界ですからほっといても数学的な発想ができるようになり、あのくそ面白くもなかった数学の教科書も推理小説を読むように面白く感ずるようになります。
例えば東大の入試問題でもスラスラと解けるようになります。

 

 

数には個性があります。
ピタゴラスという古代の有名な数学者がいます。

 

あのピタゴラスの定理で有名な人です。
彼は「世界は数でできている」という有名な言葉を残しています。(ここでの数は有理数)

 

1オクターブを8つに分けたのも彼です。
彼は「数」で人生を表すことができると考えていました。

 

とんでもない人です。
(古代の数学者や哲学者は今見てもすばらしい発見や発想をしていますが、とんでもない明確な間違いも結構あり、調べると面白いです。アリストテレスなど)

 

でも彼の理論は、「おもしろさ」という観点でみるととても意味深いのです。
彼は数字に次のような意味を持たせています。

 

1は理性、2は女、3は男、4は正義または真理、5は結婚。6は恋愛、霊魂、7は幸福、
8は本質、愛、10は神聖な数。

 

1+2=3  つまり女に理性を足すと男になる。(スゲー男尊女卑)
2+3=5 男+女=結婚
2×3=6 男×女=恋愛 
3+3=6 男+男=恋愛?
2+2+3=7 はどういう意味になりますか?

 

 

ピタゴラスは、平均率の元も作り独特の世界観で宗教的な教団まで主宰しますが、彼の世界観も無理数の発見によって崩壊していきます。
無理数とは√2のように循環しない無限小数のことです。
無理数の存在は彼自身が発見したピタゴラスの定理で証明されるという皮肉さがここにあります。

 

あるとき、弟子の一人が正方形の対角線はピタゴラスの定理によって整数や小数では表されない数になることに気が付きます。
こんなものがあったのでは彼のこの世はきれいな数(有理数)のみで構成されているという教団の根源が否定されてしまうことになります。

 

もちろん、ピタゴラス自身もこの数(無理数)の存在に気が付かないはずもありません。
ピタゴラスはここでどうしたでしょうか。

 

何と彼は教団の存続のためこの弟子を殺してしまい、この数を無理数として教団の最高機密として封印してしまうという暴挙にでるのです。

 

無理数の話は一旦ここまでとし、そもそも数とは何かということを考えて見ましょう。
なんでも「そもそも」という問いかけが物事を面白くする入り口なのです。

 

1,2,3,4,・・・・・・という整数が並んでいるとき、普通私たちはピタゴラスのように理性、女、男とは感じません。
人数だったり、成績の順位だったり、武道の級とか段位だったりします。

 

よく考えるとこれらの数には「加える事に意味が見出せる数」と「加える事に意味が見出せない数」があることが分かります。
人数とか重量とかお金、面積や体積、長さこういった数は足し算に意味があります。

 

え、数ってみんな足し算できるでしょう、と思うかもしれません。
でも、そうでない数も実は多いのです。

 

順位はその典型です。
かけっこの1等と2等を足しても3等にはなりません。

 

テレビの4チャンネルと6チャンネルを足して10チャンネルなどという考えは全くナンセンスです。
足し算できない数も結構多いことにびっくりします。

 

このように数には足し算が意味をなすものとなさないものがあることを知ってください。。
足し算ができることを数学的には加法性があるといいます。
世の中にあふれている数の洪水の中からこの数に加法性があるかないかの判断をする事がまず数学を面白くするための第一歩です。

 

 

Q 加法性がないと足し算ができないってことは引き算もできないのですか?
もちろん出来ません。掛け算も割り算もなんにもできないのです。

Q では加法性があれば、どんな計算でもなりたつのですか。
そうです。加法性があれば全ての数学の演算が可能です。

Q じゃ加法性のない数は数学の対象にはならないのですか。
いや、そこまで断定することはできません。加法性のない数で定義された数学の分野も存在します。

Q よく意味がわかりません。具体的な例をあげてください。
例えばお金で考えて見ましょう。100円持っている人Aと500円持っている人Bと10万円持っている人Cがいるとします。
Aは貧乏な人です。Cはお金持ちです。BはA に近いのですがこの3人のなかでは中間の人です。お金もちの順で並べるとAは3位、Bは2位、Cは1位となります。
この中に数値の単位は円と順位という二つの要素が存在します。
加法性のあるのは円で無いのは順位です。
足し算や引き算ができるのは円の方で順位はこうした演算は無意味です。
でも、この順位はテレビのチャンネルとは違って数字に何らかの量的な意味があります。
すくなくとも1位より2位は貧乏で2位より3位は貧乏です。また3位は1位よりも貧乏であることが疑う余地もありません。
つまり足し算はできないけどその順番には厳然とした規則が存在しているわけです。

Q 加法性はないけれど何らかの規則性は存在する数が世の中にはあるということですね。
そうです。そうした規則性で順番だけは保証されているようなものを数学では単調といってその性質のことを単調性といいます。

Q では加法性はないけど単調性はあるといった数の例をあげてみてください。
そうですね。空手の段位とかミスユニバースの順位とかモースの硬度計とかはそうですね。

Q 空手の段位は数が多いほうが少ない方より強いということですか
そうです。もっとも実際の強さというより客観的な権威の順位のようなものですが。

Q 話が少し混乱してきました。
もともと順位という尺度自体が厳密な定義によって規定されていないことが混乱の原因です。ミスユニバースの3位は5位より絶対美人であるかどうかは微妙なところですが、その大会のなかでは順位は絶対的な数字の少ない方が美人ということになっているわけです。
空手の段位でも、二段の人と三段の人を足したら五段の強さになるわけではありません。もしそうであるなら加法性が成り立つということになります。

Q 加法性が成り立たない数字というものは思ったより世の中に多そうですね。
そうです。実際加法性がないのにあたかもあるように装って人をだますような数値が世の中には氾濫しています。たちの悪いのは元々加法性がある数値を巧妙に手を入れて単調整しか保証できない数値に変換しそれをあたかも加法性があるように見せかけたものです。
経済指標のようなもの、特にグラフであらわされたものにそれが目立ちます。

Q 加法性があるかないかを簡単に見分ける方法はありますか。
あります。まず足し算引き算をしてみて意味が見出せるかどうかです。
ただ引き算というのは思ったより意味が深いのです。

Q 引き算の意味というと?
足し算は皆直感的に理解できます。でも引き算は結構高等な思考を要求されるのです。
われわれは簡単に行っていますが。

Q 引き算なんて少なくとも単純な数であればとても簡単な計算のように思うのですが。
いや結構大変です。まずコンピュータは基本的に引き算はできません。

Q え、コンピュータってどんな計算でも超高速で行うんじゃないですか?
いや、超高速に行うことができるのは基本的に足し算だけです。
コンピュータは補数というテクニックを使って引き算を足し算に変換して計算を行っているのです。もちろん人間でもこのテクニックを使って演算できます。
ただ簡単ですが手間がかかります。コンピュータは手間は厭わない訳です。しかもスピードだけはやたら速い。

Q 凄い、やはり人間は凄いのですね。
いや人間以外にも引き算ができる動物がいます。それはカラスです。
カラスはテントに3人の人間がいて2人出てきてもテントの中の食料を盗もうとはしないということです。まだ一人残っていることが分かるからです。つまり引き算ができているのです。

Q その引き算の本質的の意味とはなんですか足し算との差は?
まず引き算はA-BとB-Aでは答えが違います。足し算ではAB入れ替えても答えは変わらないですよね。
引き算は順序に意味があります。
引き算の第一義は比べるということです。
子供のころ身長を柱に傷をつけて計りました。
その差でどれだけ伸びたかが分かります。
大人になってくるとやがて差がでなくなり伸びが止まったことが分かります。
友達と背比べをします。どっちが大きいか分かります。
テストの点を比べるときも引き算をします。
物事を相対的に見る眼ができたとき行う脳内の処理が引き算です。
客観的に物を見る最初の処理が引き算なのです。

Q 足し算は主観的、引き算は客観的という捉え方で良いのですか?
そうです。
生まれたばかりの赤ん坊やちっちゃな子供は、お腹が減れば泣きます。
お腹いっぱいになれば満足します。つまり足し算の世界です。
成長すると自分がお腹が減っていても弟の方がもっとお腹が減っていれば分けてあげようという気持ちが生じます。2人の欲望を天秤にかける、つまり引き算をする能力ができたからです。

Q 思いやりというのは引き算ができるということの証明になるのですか。
いやいやまだそこまでは行きません。
思いやりの段階は物事を相対的に見る眼ができた。つまり引き算というもののアウトラインが分かったという段階です。

Q アウトラインが分かったということと理解したということは違うのですか。
違います。アウトラインが分かるということを科学の世界では定性的な理解と言います。
一方具体的な足し算や引き算が可能な程の理解を定量的な理解と言います。
思いやりの心は定性的な理解でもできますが、とちらにどれほどの食料を配分するのが適当かという議論になると定量的な理解が必要になるわけです。

Q なるほど、数学を理解するというのは物事を定量的に扱えるということなのですね。
その通りです。と言いたいのですが実はそうとも言い切れないのです。
ここが数学を楽しく理解できるか、受験勉強のための理解になかの分かれ道なのです。

Q 定量的な理解ができれば定性的な理解は当然できているはずですよね?
いやじつはここに落とし穴があるのです。
定量的な理解とは、具体的には公式を覚えたり計算ができるということです。
受験のための数学や物理はこの定量的な理解とその演算能力が試されます。
しかも短時間の間に相当量をこなさなければなりません。
そのためには、まず定型的な問題をすばやく解くという能力が必要です。
その能力を伸ばすには数多くの演習が必要になってきます。
選抜試験で公平に順位をつけようとすると、発想や真の理解といったものより、演算のスピードで評価するほうが評価のばらつきが少なくなり選抜しやすいからです。
そのため、受験のためには問題をすばやく解く能力が合否の決め手となりますので、学校でも予備校でもそのための演習ばかりになってしまい、結果数学を面白くないものにしてしまっているのです。

Q 面白く無くとも定量的な理解ができれば定性的な理解も包含していますよね。
包含とはまた数学的な表現ですね。
いや実はそうでもないのです。
例えば掛け算は何のためにあるのか、と聞かれたらそれは足し算では面倒な計算が一発でできて便利だからと答えられますよね。
それは掛け算を定性的にも定量的にも理解しているからです。
でも、三角関数は何のために、あるいは対数はなんのため、微分・積分はなんのためと言われた時即答できますか?

Q 確かにそうですね。でも対数ってlogですよね。これってなんのためにあるんでしょう。
簡単な対数の計算はできても何のためと言われると即答できない人は多いと思います。
これは一言で言えば掛け算を足し算で行うためです。
一般に桁数が多い掛け算は面倒ですよね。足し算ならばはるかに楽です。対数は掛け算や割り算を足し算や引き算に変換して簡単に計算を行うために考え出されたのです。
ついでに言うと三角関数の存在意義は、渡れない川の向こうまでの距離を角度で知る事ができることにあります。
そこに行かなくても、つまりメジャーで計らなくても距離が計算できるテクニックなのです。このおかげで我々は月や星までの距離を居ながらにして知ることができています。
微分・積分はもっと楽しく理解できますので後の楽しみに残しておきます。

Q 少し分かってきました。でも、なぜ学校では定性的な説明をもっときちんとしないのでしょうか。
いや実は殆どの先生はちゃんと説明しています。
数学や物理の教科書があればをもう一度ぱらぱらとページをめくってください。
それぞれの章のあたまには結構詳しくこういう定性的な説明があります。
でも、ここの説明は受験にはあまり関係ないのです(実は多いにあるのですが)
そのため、どうしてもこうした「そもそも論」はさらっと流されてしまいがちなのです。
学校によってはいきなり演習問題から入るところもあります。
ですから、多くの高校生は数学とは問題を解く学問だと誤解しています。

Q え、数学は問題を解く学問ではないのですか。
違います。純粋に論理だけで構築された仮想空間に遊ぶ学問なのです。
解くというより問題を解釈する、創造するといったほうが近いでしょう。
音楽を演奏したり作曲することに似ています。
話が発散してきましたのでまた引き算に戻ります。
引き算の次は割り算です。

Q 割り算も難しいのですか
そうですね、割り算は引き算の発展型としてとらえるとわかりやすいです。
引き算の本質は比較でした。
比較の対象が似たもの同士なら引き算だけで十分用が足ります。
でも、対象がかけ離れていた場合はどうでしょうか。
人間にとって身長が10Cm伸びることは大変なことですが、これがキリンにとってはどうでしょうか。
キリンの身長が実際どれくらいなのかは知りませんが、 キリンにとっての10Cmなんて誤差の範囲でしょう。
そうです。こういう比較は割り算でなければ成り立ちません。
何パーセント伸びたかという比較をすれば公平な議論になります。
割り算は比較主体自体も相対化してより普遍的、客観的な比較を可能にする手段なのです。

Q だいぶ割り算の意味が理解できたようです。
つまり変化の値そのものを知るのが引き算でその割合を知るための手段が割り算ということですね。
そうです。そのとおりです。
割り算の典型的な使われかたは数値の変化の割合を知るための計算です。
変化の割合を数学では変化率と呼びます。
変化が引き算で変化率が割り算ということです。

Q ああ良く分かりました。変化がキーワードなのですね。
そうです。ではここでクエスチョンです。「変化」とはそもそも何ですか。

Q 「変化」ですか、変化は変化としか言いようがないのですが。
「変化」を辞書で調べると、ある物事がそれまでとは違う状態・性質になること、なんて書いてあります。でもこれは表現としては微妙です。
「それまで」っていったい何なのでしょう。
「それまで」というのは実は時間概念を話し言葉で表現したものです。
それまで東京にいた人が今は大阪に居るとします。
「それまで」というのはある過去の時点を指します。現在は東京にはいないのです。
これは確かに変化です。居場所が変化しました。
我々はこうした居場所の変化を移動と言います。
居場所の変化は引き算で表現できます。どこか適当なところを始点として定義すれば大阪までの距離から東京までの距離を引き算すれば東京大阪間の距離が求まるわけです。
しかし引き算でできるのはここまでです。
割り算ができればその変化の割合(変化率)が計算できます。
変化にかかった時間で割れば単位時間あたりの距離の変化率が計算できます。
仮に東京大阪間の距離が600kmだったとしてそれを10時間かけて移動したとすると、600÷10=60 という数字が計算できます。
これは1 時間あたり60kmh居場所が変化した事をあらわしこの変化率のことを我々はスピードと呼んでいます。

Q 随分もってまわった説明ですけど良く分かった気がします。
引き算は距離をあらわし割り算はスピードを表すということですね。

その通りです。
でも、実際は我々は移動するとき一定のスピードではないですよね。
車でも電車でもスピードは絶えず変化しますし止まったりすることもあります。
でも、結果的に600kmを10時間で走れば時速60kmと言います。
正確に言えば平均速度ですね。

Q 割り算が平均速度を表すことはわかりましたが、引き算から割り算への概念の拡張があったように割り算の先もあるのですか?
大変良い質問です。じつはこれを待っていました。
割り算をよりきめ細かく定義したものが実は微分なのです。
漢字も良く本質をついた使い方です。微小に分ける、つまり細かく割り算をするということです。
600kmを10時間で走れば時速60kmはあまりにも乱暴な議論です。
これはあくまで平均速度であって細かい時間変化を正確には表していません。
これをきめ細かく表す手段が実は微分なのです。
ここでは微分の定義までは触れませんが、引き算→割り算→微分という大まかな流れだけを理解しておいてください。

Q では足し算の方も足し算→掛け算→積分といった捕らえ方ができるのですか。
いきなり結論をぶつけてきましたね。
たしかにその通りです。
では一気に足し算から積分までを説明してみましょう。
足し算は加法性のある数値ならなんでも計算できます。
ちょっと難しくある人の実績を数値であらわしてそれを足していくという事態を考えて見ましょう。
仕事や勉強の頑張度を数値であらわします。これは足し算できます。
その頑張度に時間をかければその量を測ることができます。
時間給の考え方の基本ですね。
一日一定の時間働くあるいは勉強するということであれば一ヶ月の総量は掛け算で簡単に計算できます。
しかし、一日の仕事量や時間が細かく変化するとなると計算は結構面倒です。
分単位や秒単位で計算するとなると掛け算ではやってられません。
これを可能にするのが積分です。
積分とは刻々と変化する量の累積を上手に計算する手段なのです。

Q 微分とは変化の度合い、積分は変化の累積を知る手段として捉えれば良いのですか。
そのとおりです。
私たちは人を評価するとき、その努力の累積つまり実績で表する方法と、実績はそれほどなくても現時点での変化率、ようするに右肩上がりの能力を評価する方法とに分けて考えることができますよね。
過去の実績をとるか現在の勢いをとるか、オリンピック出場の選手選考なんかでもいつももめるところです。
実績で評価するのは言葉を変えれば積分で評価することであり、現時点での勢いや意気込みで評価するのは微分で評価すると言えます。
微分とは変化の状況をきめ細かく知る手段であり、積分とは実績を正確に知る手段という認識で、これが微分・積分の定性的な理解ということになります。