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インターネットがもたらす情報過多という未来の恐怖     情報理論その3

東京造形大学 コンピュータ技術論 第11回講義

2009/06/18


 

今日のビデオの撮影は彼女に依頼 ↑

 

今日は前回の技術的アプローチと少し視点を変えてインターネットを社会システムの見地から文化的に考察した。

 

インターネットは情報伝達における媒体として捉えることができる。

いわゆるメディアだ。

 

 

メディアは近代のマスメディアの登場以来様々なシステムが登場した。

古典的な新聞、雑誌といったグーテンベルクの活版印刷をその技術的原点としたものから、電波を使ったラジオ、テレビといったマスコミまで、電話やファクシミリ、数え切れないくらいメディアの種類は多い。

 

 

それらの分類は、情報の発信者と受信者が、電話のように1対1という特定少数な関係から、テレビに代表される1対多数というマスコミュニケーションというよに、不特定多数を対象にしたものに分ける方法だ。

 

 

一方、情報の時間関係と方向性に着目した分類も考えられる。

その一つは情報の発信と受信がほぼ同時刻に行われる、いわゆるリアルタイム性があるかどうかという判断だ。

 

 

電話はもちろんリアルタイムでのやりとりだ。、テレビ、ラジオは録画、録音したものも多いが、実況という形でいつでもタアルタイム性は確保できる。

緊急事態の情報発信などではこのリアルタイム性は大きな力を持つ。

 

 

新聞や出版は、不特定多数に効率よく情報発信できるがこの同時性、リアルタイム性は確保できない。

号外などでどんなに急いでもテレビ、ラジオには敵わない。

 

 

では、テレビ、ラジオがメディアとして最強かと言うと必ずしもそうとは言えない。

テレビは新聞の持つ決定的な性質を持っていないからだ。

それが何かと言うと、情報の保存性である。

 

テレビはリアルタイムででニュースを流すが、それを聞き逃した者は、次のニュースを待つしかない。

一方新聞などの出版物は記録として情報の保存が可能である。

情報の保存性は、事実の確認や証拠書類としての重要な役目を持つ。

 

 

いわゆる契約書の類は情報の保存性に着目した利用方法である。

電話などによる口約束では、当事者以外には事実を立証する手立てが無く、「言った言わない」の係争のもとになるからだ。

 

このように、多くのメディアはそれぞれが同時性、双方向性、保存性の3つの特徴のうちどれかは持っているのだが、この3つを同時に満たすメディアは存在しない。

いや、存在しなかった。インターネットが現れるまでは。

 

そう、インターネットはこの全てを満たす万能のメディアなのだ。

まず、特定少数間のコミュニケーションは当然メールなどによって可能である。

 

 

一方不特定多数に対する情報発信も、ホームページやブログなどで簡単に実現できる。

一方もう一つの視点、同時性、双方向性、保存性に関しても見事に全てを満たしている。

 

全方向あらゆる機能を満たした万能メディアがインターネットなのだ。

しかも、インターネットは、テレビなどのマスコミと異なって、中央集権的な体制を原理的に取れない。

 

これが、独裁勢力によるプロパガンダや情報操作をやりにくくしている。

こうしてみると良いことづくめのように見えるインターネットだが、そこには深い落とし罠がある。

 

それはかつて人類が地球上にあらわれてからこの方、一度も経験したことの無い世界の出現による。

人類はその発生から今日まで、常に「不足」の恐怖の真っ只中にいた。

 

食料の不足、エネルギーの不足、そして情報の不足である。

人類の歴史はこれら「不足」からの脱却の長い闘争史として捉えることができる。

 

しかし、現在、少なくともこと情報に関しては、「不足」から「過多」へと状況が変化してきている。

もちろん「必要な情報」というくくりであれば不足していることに変わりはないのだが、仮に必要な情報が既に発信されていたとしても、無駄な情報の洪水に飲み込まれた必要情報は「無い」のと実質的には変わらないのである。

情報が無いのとは本質的に異なる状況なのだが、情報の受信者かにしてみればに状況に変わりがないという事になる。

つまり多すぎる情報は、それが必要条件を満たしていても、あまにも多くのゴミ情報に埋まってしまうことで、かつての情報不足と同じ状況を作ってしまうのだ。

 

 

我々人類はあまりにも長いあいだこの「不足」からの脱却を目指していたので、急に「過多」の状況に直面しても、その対象の方法を全く知らない。

これは情報にかぎらず物質に関しても起こっている現象である。

もちろん、食料にしろエネルギーにしろトータルでは不足しているのだが、局所的には「過多」という状況が頻繁に起きているのが現代だ。

 

そこに旧来の文化や倫理、道徳あるいは宗教まで絡んで様々な混乱を引き起こしている。

「もったいない」運動なんかもその混乱の象徴的な現象だ。

 

「もったいない」という概念は全てが不足しているという大前提のもとでの規範である。

過多の状況では絶対に生まれない概念だ。

 

旧来の道徳に規範になっている「不足」から「過多」を常態とした世界では倫理も道徳も宗教も全ての規範が根本から問い直さざるを得ない。

それは、生易しい作業ではない。

 

ものすごい精神的な革命と反動を何度も経験しながら少しづつ醸成されていく文化体系の構築となるのではないだろうか。

そのきっかけをつくるのがまさに情報過多の震源地インターネットであることは間違いないだろう。

 

現在の、まだまだ初期段階と言えるインターネットの状況ですら想像を絶する恐ろしい将来を予感させられるのがなんとも不気味である。