パケットという変な考えがインターネットを可能にした 情報理論その1
東京造形大学 コンピュータ技術論 第9回講義
2009/06/11
今日のビデオの撮影は彼女に依頼 ↑
東京造形大学のコンピュータ技術論の前期の講義もいよいよ終盤にさしかかった。
現代の社会に工業の見地からも文化の見地からも最も大きくかかわっているコンピュータシステムと言えば、インターネットを外すわけにはいかない。
インターネットの登場は、おそらく人類史上、火の発見にも匹敵するくらいの重大なターニングポイントになったと言っても過言ではないだろう。
その文化的な特質は来週の主要テーマであるが、今日はその技術的な観点からその特質を講義した。
多くのテクノロジーの発展が戦争に起因しているというのはなんとも皮肉(イロニー)な事だが、インターネットも残念ながらその例に漏れない。
そもそもの出発点はアメリカが行った核戦争になっても崩壊しない通信網の開発である。(1969年アメリカ国防省の研究プロジェクトARPAnet)
戦争映画でも、通信網の確保というシーンやテーマは、よく見る。
近代の戦争はテクノロジーに裏づけされた情報戦争であり、通信網を確保することが勝利への絶対条件となっている。
1952年当時の電話交換機とオペレータガール(ウイキペディアより転載)
しかし、従来の通信手段は、放送局や電話交換所など、情報を発信したり統括するポイントを破壊されたり占拠されればその機能はダウンしてしまう。
まして、核爆弾などでその中枢部も含めた一定の範囲が壊滅したらそのシステムは完全に崩壊してしまう。
こうした状況にならない通信網は無いかといろいろ研究された結果あみだされたのがパケット通信方式である。
パケットとは小包のことだ。
宅配便などで送る小包の仕組みを電子的な通信網で行うことができるかといのが発想の根本にある。
とんでもない事を考えたものだ。
小包は発信元と宛先を書いた伝票が添付してある小荷物のことだ。
最終的に宛先に到達しさえすればその荷物がどのような経路を経て来たかは問われない。
集荷に来たトラっクが宛先まで運んでくれるとは今どき小学生でも考えていない。
トラックなどのトランスポータから道路、鉄道といったインフラを一定のルールで共有することでこうした小荷物運送は成り立っている。
この考えを、デジタル化した情報と電子式の通信網で実現した方式がパケット通信と呼ばれるものだ。
現在そのテクノロジーが実用的に運用されている実績があるからこそこの理論の有効性を疑うものは居ないが、従来の通信網しかない時代、例えば1950年代にいきなりこうしたシステム(パケット方式)を提示されても、これが実用化されると答える技術者はほとんど居なかっただろう。
「メール」は何とか理解できても「IP電話」にいたっては、電話とはそもそも回線を占有しているからこそ通話が可能であり、もし音声データを一定の長さ(量)でブツブツ切って、しかもそのたびに異なる回線を通って送られるデータが合成されて基の音声になるなんて、しかもリアルタイムで応答できるなんて誰も信ずることはできなかったと思う。
現在、それが実用化されている現実を見ても私はまだ心の奥底では、本当にこんなことができるのかと夢を見ているような感じにとらわれることかある。
それほど、ありえないことを実現しているのがパケット通信なのだ。
パケットという言葉はもはや市民権を得ていてその言葉を聴いた事がない人はほとんど居ないと思うが、その根本原理を自分の頭で納得できる形で理解している人はほとんどいない。
原理自体は講義で解説したようにきわめてシンプルで単純な構造なのでしっかりと理解して欲しい。
そして、このパケット通信というシテスム自体が、中央集権的なホストを必要としない構造なので通信網を「くもの巣」のように張り巡らせることができたのだ。
だからインターネット網をくもの巣(WEB)と呼ぶ。
html、http、www(ワールドワイドウエブ 世界に張り巡らされたクモの巣)が開発れさたのは1992年である。
私が電波新聞社からパソコン通信活用研究という本を出版したのが1986年であるから、開発より6年前の出版時は整備されたインターネットは影も形も無かった事になる。
その後わずか6年にして現在のインターネットの原型は現れるのである。
この本を今あらためて読み返してみると、WWWの予想は残念ながら見ることはできない。
しかし、この本の中で、
「パソコン通信はかつて人類が経験したことのないコミュニケーションの形態であり一度でも体験すると虜になってしまうほどの魅力を持っている」
と述べ、その「普及の鍵を握っているのは通信コストである」と断定しているところは、現在のインターネット利用コストの驚くべき低価格化とそれによる劇的な普及を多少は先見していたかな、とささやかに自讃しているところではある。