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ルールさえ守れば何をやっても良いのか   論理学の話その1

東京造形大学 コンピュータ技術論 第6回講義

2009/05/21


 

今日の講義のビデオの撮影者は↑彼。

 

今日の講義の内容は論理学。

いよいよ集合論の核心に入っていく。

 

最初に理解してほしい概念は必要条件と十分条件。

この概念は論理学の基本となる考え方だ。

 

しかし、日本人が最も疎かにしているというか重きを置いていない概念でもある。

いわゆる学習というレベルで、これを理解できない人はほとんどいない。

 

教わった時は誰もが「なるほど」と言って理解する。

しかし、一旦日常に戻るとあきれるほどこの勉強が役に立っていない。

 

例えば良く聞くセリフに「ルールさえ守れば何をやっても良いのか」というものがある。

これは、「気にくわない奴」を非難するときに使う言葉だ。

 

人を非難する一番簡単な方法はルール違反を指摘する方法だ。

「約束を破ったな」、これは古今東西、言葉の武器のエース格のものである。

 

水戸黄門の「皆の者、この印籠が目に入らぬか」の印籠に匹敵する効き目を持っている。

まあ、約束を破る奴は、どんな文化、宗教、イデオロギーであっても非難されても賞賛されることはまずない。

 

しかし、悪い奴は、あらかじめここらへんは心得たものであり、最低限のルールは形だけではあっても守っているやつが多い。

インテリやくざに類する個人や集団が、これまた悪徳弁護士などと揶揄される専門家などとタッグを組んで悪行の限りを尽くすなんていう筋書きの小説、映画の類は毎年のように量産され、そして一定の割合で必ずヒットする。

 

この手の悪い奴は「ルールは守っている」のである。

で、こうしたルールの抜け穴とか不備に付け込み、あるいは法律の知識を悪用して善良で無知な一般庶民を苦しめるという筋書きだ。

 

こうした悪い奴に対抗するヒーローには二種類ある。

一つは真正面から立ち向かう正当派だ。

 

悪徳弁護士のさらに上を行く知識と理論で武装し、場合によってはスーパーマンのようなパワーも併せ持つという古典的ヒーローだ。

映画などでは一定のヒット作は続いているが最近はちょっと下火になっている。

 

最近というより、新たな主流となりつつあるのが、ルールを破るタイプのヒーローだ。

一点非の打ち所がない完全無欠なヒーローではなく、警察などの仲間内では問題児とされている一癖も二つ癖もあるような刑事が、法律すれすれの、場合によってはルール違反の破天荒な行動で悪漢を胸のすくような方法で完膚なきまでに叩きのめす、あるいは復習を遂げる。

 

こういう主人公が活躍するドラマや映画が増えている。

インターネットなどの自由な情報網の発達や個人の権利意識の拡大で昔のようなめちゃくちゃなアル・カポネのような大悪人が活躍しにくくなった現代、影で大悪を働くのは、表向きの規則は破らない知能レベルの高い悪党どもで、こいつらと正しく(違法行為を行わないで)戦うには延々と法廷闘争を続ける事になる。

 

そして、結果的には正しいはずの者が負けることも少なくない。

ここに庶民の不満が渦巻く現在の世相がある。

 

こうした庶民の鬱積した不満をぶち破ってくれるのが、この第2の型のヒーロー達なのだ。

昔の大スターのような典型的な二枚目はほとんどいない。

 

彼らは、頭も良く、腕力もある知的悪漢を、ものすごく単純な論理と法律なんかくそ食らえといった暴力で解決する。

そして我々観客に「スカっとして爽快感」を与えてくれる。

 

この時、彼らの行動原理になっているのは悪人に対して発する次の言葉だ。

「ルールさえ守れば何をやっても良いのか」

 

今は昔のように大企業と言えども簡単には従業員の首は切れない。

そのため、いつでも首を切れる派遣社員の割合を多くして、ここで労働力の調整をする。

 

ほとんど読めないような小さな字でぎっしりとかかれた契約書には、結果的にはいつでも首を切れるための条項が巧みに配置してある。

そして淡々とルールにのっとって首を切るのである。

 

優れた技術やノウハウ、伝統、ブランドを持つが、法的な整備の遅れている中小企業を、現在の市場の原理とルールを縦横無尽に駆使して乗っ取る企業がある。

そのハイエナのような企業は昔のように暴力団を使って、嫌がらせをしたり脅すわけではない。

 

現在のマーケットのルールの範囲でゆるされる限りの機略策略をもってターゲット会社の過半数の株式を取得する。

そして、ある日突然経営者の交代を告げる。

 

法廷で争っても無駄である。

ルールは守っているのだから。

 

乗っ取られた側は言う「ルールさえ守れば何をやっても良いのか」

そう、ルールさえ守っていれば何をやっても良いのが現代社会だ。

 

私はバブル経済の頃、大幅に社員を増やそうと思い、ある人材募集誌に広告を出した事がある。

欲しかったのは男子の営業社員。

 

「男子営業社員求む」

これにクレームが付いた。

いわゆる男女雇用均等法だ。

 

「営業社員求む」に変えざるをえなかった。

法律はルールだから喧嘩のしようがない。

 

女性応募者は別の理由をつけて断れば良いとその人材募集誌の担当者は言う。

確かに言うとおりだ。でも気持ちは良くない。

 

何もこれだけではない。

あらゆる差別は、正攻法で真正面から差別することはまれだ。

一見差別のない公平な文言で飾られてはいるが、実際は姑息な運用で水面下の差別が横行する。

 

こうしてルールは形骸化していく。

ルールは守っているけど、実態はルールとかけ離れていく。

 

こういう状況が増えてくると、被害を受ける側も黙ってはいない。

裁判に訴える者、デモを起こす者、現在ならネットを使ったプロパガンダも発生してくる。

 

「このレストランは犬を連れて来てはいけません」

「俺の連れて来たのは猫だ。猫はいけないとは書いてないぞ」

 

こういうのが現れるから

「このレストランには犬や猫やリスやハムスターなどのペートを持ち込んではいけません」

となる。

 

「じゃ家畜として飼っているヤギならペットじゃないから良いんだな」

ってな奴もいるから、

「犬や猫やリスやハムスターなどのペットその他の全ての哺乳動物、爬虫類その他全ての人間以外の生物一切は連れてきてはいけません」

 

「じゃ、ロボットならいいんだな。これは犬に見えるけど精巧なロボットなんだ。においもあるし体温もある。クソだってちゃんとする精巧なロボットなんだ。

もしお前がこの犬がロボットでないと言うのなら、これがロボットではないという公式の証明書を提出してから言え」

ってな客もいるかもしれない。

 

「ルール」さえ守れば何でも許される社会の「ルール」はこのように精緻になっていく。

精緻というより、抜け道を作らせないようにあらかじめ攻めらそうな場所を予防的にガードしまくる構造になり、なんともわかりにくい条文になる。

 

そもそも、「ルールさえ守っていれば良い」という考えは、そのルールが健全な社会を構成するための十分条件を満たしているという前提がなければ成り立たない。

十分条件とはある事象が成り立つために、それが満たされていれば、その他の一切の条件を付加する必要がないという条件だ。

十分条件は、総論としては簡潔に表現できるが各論に関しては大変複雑になるのが常だ。

 

「結婚相手の条件は」と聞かれて「良い人であること」と答えたとする。

一見簡潔な答えのようであるが、これはぜんぜん簡単ではない。

 

そもそも良い人の定義がここにないからである。

良い人を具体的に定義すると、これだけで一冊の本になるだろう。

 

こうした定義の明確でない簡潔な概念を使ったルールはルールというより、生き方とか心構えとか信仰とか信念といった倫理や哲学の領域になる。

倫理や哲学の論理は必要条件のオンパレードだ。

 

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」なんていうキリスト教の有名な言葉はこれをルールとして捉えると意味がわからなくなる。

隣人愛を十分条件だとすると、隣人愛さえもてばあなたは敬虔なクリスチャンです、ということになるがそうではない。

そもそも隣人愛の定義があいまいだし、そこに目をつぶっても隣人愛は多くの教えの中の一つであり、敬虔なクリスチャンであるためる必要条件でしかない。

 

その上、隣人には普通の人でない人の可能性もある。罪人や敵も含まれる。

だから「あなたの敵を愛しなさい」というサブセット(部分集合)も論理的に導かれる。

 

キリスト教だけではない。あらゆる経典類の教えは、そこに書いてあることを十分条件としてとらえて、この本のルールに違反さえりしなければ私は聖者になれるのですね、なんて姿勢で臨む事自体がもともと想定されていない。

ここに書かれていることは、必要条件の羅列であり、たとえ話の集合体なのである。

 

しかし、建設的な人は必要条件に興味を示す。

倫理や宗教、哲学だけでなく、工学や理学といった科学の世界でも何かを学び、理解しそして自分の世界を築こうと志す人は、必要条件を探索する。

 

「アンドロメダ病原体」というマイケルクライトンの小説がある。

宇宙空間の微生物で生物兵器を作る目的で飛ばした人工衛星がアリゾナ州の小さな町に着陸する。

 

そこに回収部隊が到着すると、町の住人が死滅している。

ただ、たった二人だけ生き延びている者がいた。

 

(新型インフルエンザが今日東京でも発生しマスク着用の学生が増える。)

 

それは、泣いている赤ん坊と酔っ払いの浮浪者だった。

核爆弾で一帯を破壊せよという極秘命令と何とかそれを避けようとする科学者の5日間の血みどろの戦いが始まる。

 

ここでの探索の興味はこの二人が助かった共通項を洗い出すという作業だ。

これは、必要条件の探索である。

 

必要条件を洗い出し、最後にこれを統合して十分条件に至る過程が発見であり結果が発明である。

必要条件の探索はスリリングであり人の探究心をくすぐり、エキサイティングでもある。

 

一方十分条件から考察する人は後ろ向きの人が多い。

まず、それは安全思考であるからだ。

 

これさえ守っていれば大丈夫なんですね、という考えだ。

失敗しない事、非難されないこと、罰を受けないこと、首にならないこと・・・・・・・・

 

何事にも、受身の態勢の人は十分条件を無意識に探す。

まずは安全を確保し、次に最も無駄なものから省いて行こうとする。

 

堅実ではあるがチャレンジャーではない。

もちろんどちらが良いかという問題ではない。

 

私はチャレンジャーのほうが好きだが。