命令に従う能力
2009/04/05
空手道場で子供たちを指導していて最近特に感ずるのが号令に子供たちが殆ど反応しないことだ。
まったく反応しないというわけではない。
何となく聞こえているが聞いたことに対する体の反応が鈍いのだ。
最近顕著に感ずるようになった。
良く考えてみるとこの現象は子供たちだけではないということに気が付いた。
そしてこれはすごく根の深い問題が背後にある事にも。
ガバナビリティという言葉がある。
昔渡部昇一氏がこの言葉の誤訳問題で話題にさていたことがあり興味深くその意見を拝読したとがある。
誤訳は「ガバナビリティ(Governability)を「統治能力」と訳している点で、本来は全く逆の「被統治能力」が正しいという説である。
現在は渡部昇一氏の訂正のように正しく解釈されることが多いのだが、有名な翻訳サイトのExcite翻訳では現在でも「統治能力」と訳す。
日本語で「統治能力」と「被統治能力」と言えばその意味はま反対である。
統治能力は人を支配する能力であり、リーダーシップの事を意味する。
一方「被統治能力」とは統治される能力、言葉を変えれば従順さを表す言葉になる。
一方は支配者でもう一方は被支配者である。
私が空手道場で感ずる子供たちの反応は「被統治能力」としてのカバナビリティの欠如である。
入会した直後の子供たちはごく少数を除いて大部分がきちんとした挨拶ができない。
返事や意思表示がもたつく。
整列や解散といった集団行動をキビキビした動作で行うことができない。
おそらく学校や家庭でこういった訓練をまったく受けてないためだと思う。
戦争を起こした原因を全体主義に帰結させ、集団行動における規律を守らせることが軍事国家への道を歩ませることになるという短絡した戦後教育のつけがこうした形で現れてきたのだと思う。
「自分らしさ」とか「個性」とか個人意識を高める言葉のオンパレードで戦後は突き進んできた。
個性の尊重は本来悪い言葉ではないのだがどういうわけか、統治される事を忌み嫌う精神風土の中で独特なニュアンスを生み、それが皮相な平和主義といびつに練りあわされて現在の脆弱で腐敗臭のただよう社会風潮が生まれたのである。
渡部氏のガバナビリティ(Governability)の訳「被統治能力」は名訳だと思う。
しかし、この言葉は現在の日本では最も忌み嫌われる言葉でもある。
戦後の日本人は「統治」も「被統治」も大嫌いなのだ。
号令するのも嫌だが号令されるのはもっと嫌なのだ。
つまり命令という状況はそれを発するがわでも発せられるがわにも居たくないというのが戦後日本人の平均的な心情となっている。
「話し合い」が金科玉条で、全てのシステムがここを原点として駆動している。
子供たちの行動にそれが最も先鋭的に現れているのだ。
先生も命令はしたくない。子供も命令に従いたくない。そしてその風潮は親も社会も是認しているコンセンサスなのだ。
そういう一団が私の空手道場にやってくる。
昔はこうした子供たちを正しく矯正するのに一月はかからなかった。
今は3ヶ月かかる。いやどうかすると半年かかる場合もある。
戦時中、学校で平和主義を教えるとすれば大変なエネルギーが必要だったと思う。
しかし現在の日本社会で規律や命令に従うこうとを教えるのはこれと同じエネルギーが必要なのだ。
だが私はこのエネルギーは出す必要があると思う。
3ヶ月いや半年かかろうとも子供たちの矯正は絶対に必要だ。
「被統治能力」の無い子供は当然「統治能力」もない。
話はもどるがガバナビリティ(Governability)の誤訳「統治能力」は誤訳ではないかもしれない。
もちろん本来の正しい意味は渡部氏の主張される「被統治能力」なのだが、「被統治能力」と「統治能力」は本来表裏一体のもので、どちらかの能力がある者は必ず反対の能力もあるのだ。
良い兵隊たりえるものしか良い将校にはなりえないのだ。
良い経営者は必ず若いとき良い工員であったり良い営業マンであったはずだ。
現場では最低の仕事しかできなかった者が経営者になったらとたんに能力を発揮するなんてことはありえない。
良い兵隊、つまりすばらしい被統治能力のある者が統治者になってこそ良い命令を出せるのだ。
つづく